「保守vs.リベラル」「ワクチン推進派vs.ワクチン懐疑派」……対立する両陣営は、なぜまったく同じ論法で相手を罵るのか

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 「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけよ」――哲学者のニーチェはこのような警句を遺したそうです。たしかに激しく対立する人たちの論争を観察していると、お互いにそっくりな論法で相手を批判しているように見えることがあります。

 医療人類学者の磯野真穂さんは、近刊『社会が壊れるその前に――メアリ・ダグラスの人類学』(新潮選書)で、「欠如モデル」という概念を使って、このような対立が起こる構造を解説しています。同書から一部を再編集して紹介します。

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医療現場の外側へ 対立は論理の手前で起こる

 私は医療現場の観察、患者や医療者へのインタビューを中心に研究を行ってきた医療人類学者である。研究を続ける中で、私は医療の中で起こっていることは医療の外でも起こっており、そこで得た知見を医療の外にも敷衍できると考えるようになった。

 私にそう思わせた例を1つ紹介しよう。リスクコミュニケーションにおいてよく知られるモデルに「欠如モデル」がある。これはリスクをめぐって社会の中で起こる混乱は、大衆の知識不足にあるのだから、専門家が正しい知識を啓蒙すれば混乱は治まるという考え方だ。しかし、欠如モデルを元にした解決策はうまくいかないどころか、状況をさらに悪化させることもあることがすでに知られている。ところが欠如モデルは、医療現場で実によく顔をだす。患者が代替医療を使っていたり、処方された通りに薬を飲んでいなかったり、医療者から見て何かを過剰に怖がっていたりすると、「患者に知識がないからこうなってしまう」という形で医療者側がそれらの状況を腑に落とそうとするのである。

 知識不足の問題はもちろんある。しかし数多くの病気の当事者の話を聞く中でつくづく思うのは、人がある方向に否応なく動かされてしまう時、そこで働いているのは知識や論理ではないということだ。たとえば摂食障害の当事者は、1つのケーキを食べたからといってぶくぶく太ることなどないと頭ではわかっている。栄養学や生理学などについて専門家顔負けの知識を持っていることだってざらだ。しかしそれでもなお、食べることが怖くて仕方ない。だから食べられない、食べたら吐いてしまう。なぜなら論理ではなく、情動に突き動かされているからだ。

 こういう状況を私たちは病気と呼び、病気ではない自分たちと分け隔てる。しかし私たちはこの状態と無縁だろうか。『コロナ禍と出会い直す――不要不急の人類学ノート』(柏書房、2024年)に詳述したが、炎天下の中でもマスクをつけ続け、あたりかまわずパーティションを設置し、子どもたちに何年も黙食をさせたコロナ禍を思い出してほしい。このような「感染対策」をおかしいと思った人は大勢いただろう。しかしたとえ頭でそう思っていたとしても、その場の当事者になった瞬間に、場の力学に巻き込まれて頭で考えていることとは正反対のことをしてしまう。感染症に詳しい専門家すら例外ではない。これこそ象徴の力であり、人類学者のメアリ・ダグラスはこれら象徴の組み合わせによって表現され、感じとられる価値観や規範の一式を宇宙観(コスモロジー)と呼んだ。

「保守とリベラル」「ワクチンと反ワクチン」の類似性

 さて、医療の問題と政治のそれが相似であることを確信したのが、2025年の暮れから翌年初にかけ、保守からリベラルまでの論壇誌に一気に目を通し、かつ政治的立場を問わず多くの動画を視聴した時であった。医療の場合は、専門家が素人に向かって欠如モデルをあてがうのだが、政治の場合は、保守もリベラルも相手側に向かって欠如モデルの矢を投げつけ、その結果、双方の言っていることは次のように酷似してくる。

「社会がこんなふうになってしまったのは、あの人たちが間違った考え方をしているからだ。でも私たちは正しく世界を見ることができている。」

 その上で双方は同じ呼びかけを処方箋として提示する。

「情報を鵜呑みにせず、わかりやすい答えに飛び付かず、自分の頭で考え吟味しよう。」

 互いがこのような形で欠如モデルを掲げ合う対立構図は医療でも実はある。それがワクチンをめぐる対決だ。ワクチンを推進したい側も、ワクチンに懐疑的な側も、自分の論を支えるエビデンスを掲げ、相手は間違っていると主張し、互いが互いを「権力に取り込まれた輩」とか、「陰謀論に取り憑かれた嘆かわしい人々」とか言って罵る。その上で、自分の頭で考えようと呼びかける。政治的対立と全く同じである。

エビデンスを超えて

 私は知識やエビデンスがどうでもいいと言っているのではない。これらは何かを理解し、判断したりするための欠かせない素材だ。しかし意見の異なる両者が激しく対立している時、自分の知識量や正確さばかりを、兎にも角にも前面に押し出し、相手を批判したり(これはすぐに罵倒に転ずる)、納得させようとしたりすることは悪手ではないかと言っているのである。

 そもそもなぜ、自分の理解が正確で、知識量が十分であると確信を持てるのか。知というものに誠実であれば、自分は十分に理解し、知っているなど決して言えないはずなのに、いざ対立が始まるとその大切な事実は保留されてしまう。

 欠如モデルを掲げ合う終わりなき対立をダグラスの理論から考えてみると、次のようなことが言える。

「双方とも、自分が住まう社会が立ち上げた象徴に巻き込まれている。象徴によって情動が突き動かされた時点で、自分がどの立ち位置を取るかはすでに決まっている。論理は後付けでしかない。だから論理を突きつけあっても絶対に解決しない。対決の源は、無根拠さに根差した宇宙観の違いにあるのだから。」

 ※本記事は、磯野真穂『社会が壊れるその前に――メアリ・ダグラスの人類学』(新潮選書、9月28日刊行予定)の一部を再編集したものです。

磯野真穂(いその・まほ)
人類学者。東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授。長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、トレーナー資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入。しかし自然科学のアプローチに違和感を覚え、文化人類学に専攻変更。同大学大学院にて応用人類学修士号取得。IT企業にて2年間の派遣社員を経た後、早稲田大学大学院文学研究科に入学し、2010年に博士(文学)取得。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て、2020年より在野の研究者として活動。2024年より現職。専門は文化人類学、医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界:「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想:やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『他者と生きる:リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)、『コロナ禍と出会い直す:不要不急の人類学ノート』(柏書房。第33回山本七平賞受賞)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社。濱口竜介により映画化、カンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞)がある。

デイリー新潮編集部

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