朝日新聞社での立てこもり事件では説得役に 「公安警察のエース」として活躍した宮崎忠さんが逝去
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回取り上げるのは、9月22日に逝去した、公安警察の元エース・宮崎忠さん。
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公安警察は国際テロ組織、過激派、右翼などによる犯罪を未然に防ぐ対策や捜査にあたる。警視庁の公安部という日本最大の公安警察で厚い人望を寄せられ、担当記者らから「ミヤチュウ」の愛称で呼ばれたのが宮崎忠氏だ。
現場たたき上げの公安捜査官。公安部長を支えて課を統括する重責を担う参事官を務めた。参事官は2名おり、宮崎氏はいわゆるノンキャリア組である。
警視庁の公安部長の経験もある元警察庁長官の國松孝次氏は言う。
「すぐに思い出す人です。しっかりしており信頼できる人でした。何より警察官としての心構え、気構えを持っていました」
公安部で仕事を共にした警視庁の元幹部も振り返る。
「親分肌でカリスマ性がありました。部下の話をよく聞いて受け止める。裏表がなく面倒見もいい。仕事への猛烈な使命感の持ち主で、この人にならついていこうと部下は迷わずに感じた」
朝日新聞社での人質立てこもり事件では説得役に
1939年、山形県生まれ。山形県警に入る。64年の東京五輪には全国から警察官が応援要員として派遣され、優秀な者は警視庁入りを勧められた。宮崎氏はその一人だ。
現場の最前線に立ち続けた。94年に故・野村秋介氏の門下生二人が朝日新聞社で同社幹部を人質に取って応接室に立てこもった事件では、現場で説得役に。
電話に応答しない二人に社内放送で呼びかけ、銃と刀を携えた彼らは人質に危害を加えるつもりがないとの感触を得る。朝日の報道姿勢への意見を展開した後は収束すると読んだ。人質は約6時間後に無事解放、犯人も抵抗なく逮捕された。
キャリア組の参事官や上長の公安部長は在任約2年で異動する。一方、公安部の生き字引として捜査員から敬服される宮崎氏は「陰の公安部長」とも称された。
「現場の情報が第一。駄目なものは駄目、違うものは違うと相手が誰であろうとはっきり口にしていました。あいまいなことを言わなかった」(先の警視庁元幹部)
95年、オウム真理教による地下鉄サリン事件から間もなく國松警察庁長官(当時)の銃撃事件が発生。事件の捜査を担当した公安部に対して、警視庁の巡査長だったオウム信者が「自分が撃った」との供述を始めた。だが、つじつまの合わない内容が多く、宮崎氏は実行犯と考えられない、不確かな報告は混乱を招くだけで、警察庁に上げるべきではないと判断。警視庁トップの井上幸彦警視総監、桜井勝公安部長、キャリアの参事官も同じ判断に至る。
こうして警視庁から警察庁に詳細な情報が伝わらない状態が続いた事実が後に内部告発で明るみに出ると、公安部の姿勢は隠蔽(いんぺい)に等しいと批判を受けた。公安部長は更迭され、警視総監も引責辞任したが、組織に欠かせぬ宮崎氏は引き続き現場の指揮を執っている。
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