「江戸時代の三大俳人」 松尾芭蕉は「能動」、小林一茶は「受動」、もう一人は……?

国内 社会

  • ブックマーク

 江戸時代の「三大俳人」と言えば、松尾芭蕉(ばしょう)・与謝蕪村(ぶそん)・小林一茶(いっさ)です。三者三様の魅力がありますが、皆さんは誰の句がお好みでしょうか?

 俳人の黛まどかさんは、能動態・中動態・受動態という概念を使って、この3人の特徴を分析しています。黛さんの新刊『蕪村 「日常の美」の発見者』から一部を再編集して紹介します。

 ***

 近世を代表する俳諧師と言えば、松尾芭蕉(ばしょう)・与謝蕪村(ぶそん)・小林一茶(いっさ)の3人が真っ先に挙げられる。

 芭蕉は半生を旅に生き、発句の芸術性を高めて俳句の礎を作り、一茶は逆境をバネに生活感情を句に吐露した。対照的でありながらそれぞれに異彩を放つ二人の間に挟まって、蕪村はややもすると地味な存在だ。「菜の花や月は東に日は西に」は知っていても、人となりや生き方となるとどうも印象が薄いようだ。
 
 近頃「中動態」が度々話題になる。中動態とは動詞が能動態の形をしながら受動態の意味を表すものをいう。能動態(する)と受動態(される)のどちらにも当てはまらないものを指す。能動態の出発点には「これをしよう」「これをしたい」という意志が存在する。受動態は文字通り受け身だ。中動態は自発的な意志によって引き起こすのではなく、周囲の状況、環境などの外的要因が関わる。

 本来の意味とはややずれるかもしれないが、あえて芭蕉、蕪村、一茶の生き方を能動態・中動態・受動態になぞらえたらどうだろう。

「強い意志」を持った芭蕉

 芭蕉は強い意志のもとに行動する「能動態」的生き方の人であった。
 
 古池や 蛙(かはづ)飛びこむ 水の音
 
 おそらく世界で最も多く翻訳された俳句だろう。情景はわかりやすい。しかしこの句には芭蕉の挑戦がある。本来「蛙」は鳴き声を詠み、山吹と取り合わせるという和歌の決まり事を破っている。つまり古い伝統との決別の一句なのだ。

 37歳で俳諧宗匠を辞めて隠者となったのも、妻帯しなかったのも強い意志がもとにある。隠者となってからは旅に生きるのだが、旅立ちに際しては覚悟の一句を残す。
 
 野ざらしを 心に風の しむ身哉(かな)
 
 『野ざらし紀行』冒頭の一句。野ざらしとは風雨にさらされた髑髏(されこうべ)のこと。死をも覚悟しての出立だったのだ。

 さらに『笈(おい)の小文』では旅に臨んで次の句を詠む。
 
 旅人と 我名よばれん 初しぐれ
 
 「あ、そこの旅のお方」。旅の途上では名前など要らないのだ。ただ「旅人」と呼ばれるだろう。いや、そう呼ばれたい。そのために旅に出るのだから。「旅人」とは能因(のういん)、西行(さいぎょう)、宗祇(そうぎ)……そういった漂泊者であり詠み人であった旅人の一人になりたいと願っての旅なのだ。
 
 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る
 
 辞世にあっても旅への強い思いは枯野をかけ廻っていた。芭蕉の人生は常に自らの意志によって切り拓かれてきた。

あるがままを受け入れた一茶

 我と来て 遊べや親の ない雀  
 椋鳥と 人に呼(よば)るる 寒(さむさ)哉  一茶
 
 幼くして母を亡くした一茶は、継母に虐待され悲惨な幼少期を送った。十五歳で江戸に奉公に出されたが転々と奉公先を変えた。「椋鳥」とは農閑期に江戸へ出稼ぎにくる信濃人を嘲(あざけ)る表現。江戸でも心穏やかな日々ではなかったことが窺える。父亡き後は長年にわたり継母・異母弟と遺産相続争いを激しく繰り広げる。

 江戸で俳諧に出会い、7年に及ぶ俳諧行脚をした後、先師竹阿(ちくあ)の名跡を継ぐものの、俳諧師としての自立は難しかった。相続問題にようやく決着がつき、故郷信濃に帰ったのはちょうど50歳の頃。
 
 下々(げげ)も下々 下々の下国(げこく)の 涼しさよ
 雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る
 是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
 目出度さも ちう位(くらい)也 おらが春
 ともかくも あなた任せの としの暮  一茶
 
 50代以降の句を引いた。貧しい故郷、雪が堆(うずたか)く降り積もった我が家を半ば諦めの境地で受け入れる。そう出来るのは「あなた任せ」だからだ。浄土真宗の信仰が厚かった一茶にとって「あなた」は阿弥陀如来に他ならない。「……後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも、極楽なりとも、あなたさまの御はからい次第、あそばされくださりませと、御頼み申ばかり也。……」(『おらが春』より)。

 一茶の人生の前半は人との摩擦・対立の連続だった。が、後半は一気に脱力する。生涯で詠んだ句は2万を超える。詠んで詠んで吹っ切ろうとするかのような作句姿勢は、まさに念仏を唱えるようだ。俳句に喜怒哀楽をぶつけ、恩讐の彼方に一茶に訪れた春は「ちう位」だった。あるがままを受け入れる……あとは仏のご加護に任せるという他力本願は「受動態」的生き方に通ずる。

蕪村の「中動態」的な生き方

 さて、蕪村である。彼の生涯には謎が多いが、最初にして最大の謎がその出自だ。父は摂津毛馬(けま)村の長であったともされる。姓の「谷口」は母方の姓だから複雑な生い立ちであったようだ。蕪村自身は出自についてつまびらかにしていない。

 没後に弟子の几董(きとう)が記した「夜半翁終焉記」には、蕪村の略歴や業績等があるが、出所に関しては「おしてるや浪速江ちかきあたりに生たちて」と書かれるのみ。あとは時折心を許した相手に送った書簡にそれらしいことを漏らしている。
 
 父母と早くに死別し、20歳前後で江戸に出た蕪村は、俳諧師早野巴人(はじん)(宋阿:そうあ)の知遇を得て弟子となる。5年後に宋阿が死去すると、宋阿の縁故を頼って北関東の有力者のもとに寓居し絵画や俳諧に勤しみながら奥羽などを遊歴する。

 京に定住するまでの10年間の流浪の日々は、「漂泊の思ひやまず」旅立った芭蕉のそれとは明らかに違う。まず先に漂わざるを得ない状況が訪れ、その中で蕪村は回歴するのだ。能動であり受動である。或いはそのどちらでもない「中動態」的な生き方だったといえないか。
 
 春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな
 さみだれや 大河を前に 家二軒
 すずしさや 鐘を離るる 鐘の声
 月天心 貧しき町を 通りけり
 
 蕪村は俳句においても自身のことは語らない。意図的に口を閉ざす。そこに蕪村の美学や信条の片鱗を見る気がする。

 ***

 関連記事〈67歳で孫ほど若い娘にベタ惚れ 「老いらくの恋」に溺れた俳人が詠んだ名句とは〉では、蕪村の代表作に迫り、「名句なの?」という疑問へ納得の答えを紹介している。

 また、関連記事〈与謝蕪村「菜の花や 月は東に 日は西に」――これって本当に名句なの? プロが教える「納得の理由」〉では、蕪村の代表作に迫り、「名句なの?」という疑問へ納得の答えを紹介している。

※本記事は、黛まどか『蕪村 「日常の美」の発見者』(新潮選書)の一部を再編集したものです(ウェブ上で読みやすさを考慮して、一部表記を改めています)。

黛まどか(まゆずみ・まどか)
俳人。神奈川県生まれ。「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路八十八ヶ所などを踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』『私の同行二人』など著書多数。

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。