押尾コータロー、ギター初日に「Em」で挫折 人生を変えた“イケメン親友”の一言
師匠・中川イサトを完コピ
瞬く間にギター熱は増していったものの、バンドを組むには至らなかったという。
「中学の頃は、バンドって高校生がやっている感じがして、敷居が高かったんです。しかも歌謡曲はよく聴いていたけど、友達が好きなロックにはあまりピンとこなくて。バンドそのものにそんなに興味がなかったんです」
高校でも吹奏楽部でチューバを続けようと考えていた。ところが見学に行くと、部員はトランペットの先輩一人だけ。その隣がたまたまフォークソング部だった。
「『フォークソング、どう?』と誘われましたが、その頃にはギターも自分で弾いて自信がついていたんで『教えてもらわなくてもいい。俺のほうが上手い』と生意気にも思っていたんです。ところが、2年生の先輩の演奏がめちゃくちゃ上手かった。さらに3年生の先輩は神のように上手くて。OBの先輩はもうプロみたいに色気がある。衝撃を受けてフォークソング部に入ったんです」
当時から長渕剛が好きだったが、OBの先輩からかぐや姫や井上陽水を勧められて聴き始めた。3年生になった頃には、レコード店でいろんなミュージシャンの曲を探すまでに。「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康なども聴くようになった。
「フォークの歴史を知ろうと思っていたんです。そうしたら、岡林さんに代表される『関西フォーク』にたどり着き、ギタリストの中川イサトを知ったんです」
2022年に75歳で逝去したシンガーソングライターの中川は、フォークグループ「五つの赤い風船」のギタリストとしても活躍した。当時はソロで活動する傍ら、大阪・梅田でギター教室を開いていた。
「アメリカンやカントリーウェスタンのテイストが入っていて、ベース音とメロディーを同時に弾くラグタイムギターのサウンドにハマりましたね」
バンドをやるときは「甲斐バンド」や「浜田省吾」の曲をメンバーと決めて練習していたが、家に帰ると、中川イサトのソロギターの曲を楽譜を見ながら練習していた。
「それ以前はギターインストゥルメンタルといえば『禁じられた遊び』しか知らなかった。今こそ名曲だと思いますが、当時の僕にとってはいまいち刺激が足りなかった。だからこそ余計に、中川イサトの世界にどっぷり浸かりました」
すでにギターの技術的な壁はほぼなくなっていた。
「そのうちに、中川イサトさんが梅田でギター教室を開いていると知りました。月謝を払って習いに行くと言うより、アイドルに会いに行く感じでイサトさんに直接教えてもらっていました。それまでは教則本の写真の動かないイサトさんしか知らなかったのに、お手本の中川イサトが目の前で動いているわけです」
その手の動きや首の角度、さらには爪の長さまで完コピ。現在に続くギタリストとしての姿はこの時に出来上がっていった。
「変な生徒でしたね。イサトさんにその日、何を食べたのかを聞いて、同じものを食べに行ったり。全部マネしたいぐらい好きでした」
高校卒業後は地元・大阪を離れ、東京の音楽専門学校へ進む。ミッキー吉野が設立し、自ら学長を務めていた「PAN SCHOOL OF MUSIC」だ。ミッキー吉野がリーダーを務めていたゴダイゴへの憧れもあった。
「周りが進学や就職に悩む頃、ミュージシャンになろうと思っていました。みんなから『ギター上手いね』と言われていて、それだけでプロになれると思ったんですよ。本当に世間知らずで。三者面談でも親や先生に反対されることもなかったので上京したわけですが、ミッキーさんにはなかなか会えませんでした。後からゴダイゴに加入した吉澤洋治さんはギター科の講師をされていて、お話しする機会もありました。2年間通い、専門学校で作ったバンドに将来を賭けていましたが、リーダーがバンドを辞めてアメリカに行くと言い出して。どうしようかなと考えていたら、大阪の友達が帰って来いよ、というので地元に戻ったんです」
ギタリストとしてのデビューまではまだまだ遠かった。
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ギタリストになる目標を持ちながら暗中模索を続けた押尾。第2回【手売りCDからメジャーへ 押尾コータローが語る“人生を変えたラジオ”と憧れの甲斐よしひろ、長渕剛との共演】では、インディーズ盤が売れるようになったきっかけや憧れのアーティストとの共演などについて語っている。
コンサート情報等は「押尾コータローオフィシャルサイト」にて。

















