「江川卓」はなぜ巨人監督になれないのか? 入団時の“密約”が40年間果たされなかった“本当の理由”
野球人生が狂い…
高校時代からプロ注目の的だった江川は、作新学院高校卒業時のドラフトでは阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に、法政大学卒業時にはクラウンライターライオンズ(現西武ライオンズ)に1位指名されながら、いずれも入団を拒否している。
高卒時は東京六大学の慶応への憧れもあったというが、その根底にあったのは「巨人への憧れ」だ。本人は後にクラウンの指名を拒んだ理由を「在京セ・リーグ球団だったら入団していた」と語っている。交際中の結婚相手となる彼女が東京在住だったこともあるが、それ以上に「巨人に入れなくても、巨人と対戦できるチームを希望」していたわけだ。裏を返せば、それだけ巨人というチームへの憧れが強かったのだ。
そして1年間の野球浪人を経た1978年11月21日、事件が起きる。ドラフト前日にあたるこの日、巨人は前年の独占交渉権は20日までとして野球協約を曲解したゴリ押しで江川と電撃契約を締結した。これが世に言う「空白の1日」だ。
セ・パ両リーク事務局は江川との契約を無効としたが、巨人は翌22日のドラフト会議をボイコット。そして、阪神タイガースが江川の交渉権を獲得する。江川自身は当日に契約の話を聞かされたというが、この一件は社会問題となるほどの大騒動に発展し、江川の野球人生を大きく狂わせていくことになる。
直撃インタビューに成功
筆者は阪神が江川の指名権を獲得した瞬間に、法政大学野球部の後輩でもある江川の番記者に抜擢された。以前から江川を追いかけてきた番記者たちの間では、「ドラフト後の江川は追わない」という紳士協定が交わされていたそうだが、空白の1日によって壮絶な取材合戦が始まった。
私も当時の大阪スポーツニッポン・田中二郎部長から「とにかく江川を捕まえろ!」という指令を受けて都内を走り回った。少ない情報の中でつかんだ手掛かりは、当時、江川が交際していた後の正子夫人の存在だった。東京・新宿にある実家をマークしていたところ、彼女が東京・小金井にあった漫画家の水島新司宅を訪ねていることが判明し、血気盛んだった私はすぐ水島宅の呼び鈴を押して取材を申し込んだ。
この時は居留守を使われ、そのまま朝まで張り込んだものの、結局、江川は姿を現さなかった。どうやら裏口からこっそり脱出したらしいのだが、そうこうするうちに今度は栃木県小山市の実家に帰省した情報をつかみ、ようやく夕方になって実家前で直撃インタビューに成功した。
「巨人と阪神さんの話し合いにお任せしています」
コメントは無難なものだったが、それでも江川の生の声をいち早くキャッチしたスクープである。気をよくしたデスクからは張り込み続行の指令が飛び、それからの2週間、小山の実家前で24時間態勢の張り込みをすることになった。
父が明かした「密約」
さすがに江川本人が姿を見せることはなかったのだが、家を出入りする江川の父親・二美夫さんと親しくなった。二美夫さんにしてみれば迷惑でしかなかったはずだが、それでも張り付く記者を憐れんでくれたのか、ある日、こんな話を明かしてくれた。
「吉見さん、朝から晩まで大変ですね。息子のことで体を壊さないでくださいね。申し訳ないので一つだけお話しします。今は書かないでほしいのですが、息子は将来、巨人の監督になりたいという夢があるんです。この約束は読売との契約条件にも入っています」
私は二美夫さんとの約束を守って、この証言をデスクに報告せず、記事にも書かなかった。ただ、その後の江川の人生を見ると、この密約の存在は、江川にとっても、巨人にとっても、ある種の“呪い”のように付きまとっているように思えてならないのだ。
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しかし、冒頭に述べた通り、この約束は今に至るまで守られていないままだ。【後編】ではその理由について詳述する。これまで3回はあったと言われる監督就任のチャンスを阻んだのは一体、誰なのか――。
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