【豊臣兄弟!】家康との決戦「小牧・長久手」で壮絶な戦死を遂げた武将は 高祖父、曽祖父、父のほか6人兄弟も1人を除いて戦死した

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27歳で死ぬ前に兄弟6人中4人は討死していた

 まず、長可の兄(長可が長男だという説もある)の可隆は、父の可行よりわずかに早く戦死した。元亀元年(1570)4月、信長による越前(福井県東部)の朝倉攻めに従軍し、浅井長政の裏切りが伝えられたことで知られる金ケ崎合戦の直前、手筒山城(福井県敦賀市)の攻略戦に参加して討死している。

 長可のすぐ下の弟の成利は、同時代の史料に「森乱」などと記され、軍記物などには「森蘭丸」と書かれている、あの人物である。すなわち信長の近習で、本能寺の変の際、数え18歳にして討死している。『美濃国諸家系譜』などによれば、明智光秀配下の安田国継に討ち取られたという。

 だが、このときに討たれた森家の人物は、成利(森乱)だけではない。第一級史料と認められている太田牛一の『信長公記』には「御殿のなかで討ち死にした者は、森長定(註・成利のこと)・長氏、長隆の兄弟三人。(中略)お小姓衆は、敵勢に打ち掛かり打ち掛かりして討ち死にした」(中川太古訳)と書かれている。

「長隆」とは森可成の四男で「坊丸」の通称で知られる。すなわち成利(森乱)のすぐ下の弟で、やはり信長の小姓を務めていた。このとき数え17歳。また、「長氏」は「力丸」の通称で知られる可成の五男で、信長の小々姓(元服していない年若い小姓)だった。享年は数え15。

 森長可が長久手合戦で即死したとき、まだ数え27歳だったが、それ以前に6人兄弟のうち4人は討死していたことになる。祖先も含めてあまりにも不幸続きだっただけに、思うところがあったのだろう。長可は冷酷な猛将として「鬼武蔵」の異名を得ていたが、その一方で、遠征先や陣中から、母親や弟の身を案じる手紙を頻繁に書き送っていた。

森長可が家族の無事を願った理由

 そして小牧・長久手合戦に際し、別動隊で三河を攻める作戦を実行に移す前、長可は遺言状を残していた。そこには、「母は京都に住まわせてほしい」「自分の娘は京都の町人に嫁がせてほしい」「自分の跡目を幼い弟に継がせず、弟は秀吉の近くに奉公させてほしい」などと記されている。命を落とす可能性が高い戦国の最前線に、これ以上、家族をさらしたくない、という切実な思いが読み取れる。もはや長可にとっては、大切なのは森家の繁栄よりも、家族の無事だったのだ。

 さて、長可の討死後の話である。可成の息子は6人もいながら、もう六男の忠政1人しか残っていなかった。ちなみに、この忠政もいったんは信長のもとに小々姓として出仕しながら、失態があって家元に返されていた。紙一重のところで本能寺の変を免れていたのである。

 長可は前述のように、遺言書に弟の忠政について「あとつぎ候事、いやにて候」と明記していたのだが、そうはいっても、長可には戦功があり、秀吉がその所領を没収するわけにはいかない。そこで遺言は無視し、美濃金山城(岐阜県可児市)の7万石が幼い忠政(当時は長重と名乗っていた)にあたえられた。

 以後の忠政は、秀吉の死後には家康に接近し、関ヶ原合戦の直前、希望どおりに信濃(長野県)の川中島に加増のうえ転封となった。関ヶ原合戦では東軍にくみし、慶長8年には美作(岡山県北東部)の津山城(津山市)へと、18万6500石に加増されたうえで転封になり、その地で65歳の生涯を終えた。

 幸い、長可の弟への心配は杞憂に終わった。だが、命が軽かった戦国の世を生きた人たちの意識を、森長可の家族愛は象徴しているように思われる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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