【豊臣兄弟!】家康との決戦「小牧・長久手」で壮絶な戦死を遂げた武将は 高祖父、曽祖父、父のほか6人兄弟も1人を除いて戦死した

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家康に読まれていた秀吉別動隊の奇襲作戦

 織田信長(小栗旬)の次男で、事実上の織田家当主である信雄(山脇辰哉)から、「われらの手で(池松壮亮が演じる)羽柴(秀吉)を討とうではないか」と誘いかけられた徳川家康(松下洸平)は、いったん拒んだ。しかし、結局は決意し、浜松城(静岡県浜松市)に集まった重臣たちの前でいった。「これより織田信雄様の意を受け、逆臣、羽柴秀吉を討伐する。いまこそ、そのときじゃ!」。

 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第34回「最強のライバル」(9月6日放送)のラストシーンである。こうして天正12年(1584)3月、信雄と家康の連合軍が秀吉の軍勢と戦った小牧・長久手合戦が勃発する。第34回「秀長誕生」(9月13日放送)では、その緒戦が描かれる。

 徳川方が小牧山城(愛知県小牧市)に籠って戦況が膠着状態に陥ったとき、池田恒興(堀井新太)らが秀吉に献策した。家康らが小牧山城に張り付いている隙を縫って、秀吉の別動隊が家康の領土である三河(愛知県東部)に侵入し、岡崎城(愛知県岡崎市)を攻め落とそう、という計画だった。

 秀吉はこの献策を受け入れることにし、別動隊の大将には姉とも(宮澤エマ)の長男である三好信吉(山田涼介、のちの羽柴秀次)を指名して、4月6日、2万余りの大軍を三河に向かわせた。ところが、別動隊の動きは家康方にすっかり察知されていた。長吉率いる別動隊の最後部が、小牧山城をこっそりと出立した榊原康政(栗原類)らの奇襲を受け、長吉こそかろうじて逃げたものの、総崩れになった。先頭にいた池田恒興や森長可の部隊が、急報を受けて引き返してきたが、ちょうどそこに到着した家康の本隊と激戦になる。

 結局、この長久手合戦で、池田恒興は嫡男の元助とともに討死。別動隊による進攻を、恒興とともに秀吉に献策した森長可も、眉間に銃弾を受けて即死した。別動隊の死傷者は1万におよんだとされ、この戦いでの惨敗は、秀吉がずっと先まで家康に、一目置き続ける大きな原因になった。

 そんななかでも、森長可の死に方は壮絶だったが、この一族、壮絶な死に方をしたのは長可だけではない。一部の例外を除いて、みなすさまじい戦死を遂げているのである。

長可の父まで4代のうち3人が討死

 森家の祖先は、系図によれば清和源氏にさかのぼり、河内源氏の八幡太郎義家の七男の子孫だというが、創作された可能性も否定できない。いずれにしても美濃(岐阜県南部)の守護大名だった土岐氏に長く仕えていた。

 長可の高祖父、可房は永正9年(1512)に夜襲を受けて戦死。曽祖父の可秀も享禄元年(1528)に戦死し、祖父の可行が家督を継いだ。その後、可行は織田信長の父の信秀に接触し、信秀の死後、嫡男の可成とともに信長に仕えるようになった。

 だが、信長と家康の連合軍が朝倉義景と浅井長政の連合軍と戦った、元気元年(1570)6月の姉川合戦ののちのこと。その年の9月、宇佐山城(滋賀県大津市)を守っていた可成は、延暦寺の僧兵まで加わった朝倉と浅井の軍勢に攻められ、討死している。その間、可成らが連合軍を釘づけにして、信長の軍が攻撃されるのを防いだので、戦後、信長は可成を賞賛したというが、討死は討死だった。

 その翌年以降に死去した可成の父の可行は、70代、もしくは80代まで生きたが、それはこの当時の森家における例外だった。ここまで長可の高祖父から父まで4代の名を挙げたが、そのうち3人までが討死しているのだから、かなりの確率だといえる。では、長可の兄弟はどうだったのだろうか。

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