徳川に完全に破壊されたはずの「豊臣大坂城」――実は現代の大阪に隠されている「秀吉の爪痕」
豊臣秀吉が健在だった頃、大坂城は周囲に一辺2キロの堀を巡らせ、総面積400万平方メートルを誇る巨大な外郭を有していたという。しかし「大坂冬の陣」後に、大川(旧淀川)や低湿地の堀以外は徹底的に埋められ、ハダカ同然の城となったのはよく知られる話である。
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では往年の大坂城は、現在の大阪のどの辺りまで広がっていたのか。近年の発掘調査からわかった大坂城の実態を、新潮選書『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』(笠谷和比古・黒田慶一著)の一部を再編集して紹介する。
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武力では落とせなかった城
天正18(1590)年の小田原攻めの際、秀吉は広大な小田原城惣構えを目にして、自分の城にも同様な外郭を作ろうと決心する。包囲戦にもちこみ、内部離反と講和交渉によって開城に導いたものの、町ごと周囲を土塁と空堀で取り囲んだ堅固な小田原城を、武力で陥落させたわけではなかったからだ。
翌年に京都御土居、4年後の文禄3(1594)年には、大坂城の周囲に、ぐるりと一辺2キロにも及ぶ惣構え堀を掘った。これが最終的な大坂城の外郭となる。この豊臣大坂城の第3期工事=惣構え堀普請によって、豊臣大坂城は東西・南北ともに約2キロの広大な城郭となった。
東は旧猫間川(現・JR環状線)、西は東横堀川、南は空堀跡(空堀商店街南側とその延長)、北は大川(旧淀川)と第二寝屋川(旧大和川)を限りとして町ごとぐるりと堀で囲んだのだ。
1000人を出せという指令
正月19日、文禄の役(朝鮮の役)の講和交渉中だった秀吉は、鳥取城主の嫡男・宮部長熙(ながひろ)に対し、来る2月10日より「大坂惣構え堀普請」を開始するから、1000人の人員を大坂に来させるよう指示した。
同様の指令は全国に発せられたものと思われるが、秀吉は同日付けで、伏見城の三の丸石垣・惣構え堀普請をも発令しているので、動員力は分散化しており、4年後の第4期工事と比すれば、小規模であったものと思われる。そして、その工事の跡は、先ほどの分厚い盛土のさらに下層に埋まっている。
大坂城の外郭を囲うこととなった惣構えは、実は、今に至るまで町名に名残りをとどめている。すなわち豊臣惣構え内の町名は「内」を冠するのである。「内本町」「内平野町」などである。
豊臣大坂城は壮大な惣構え堀を有したが、冬の陣の講和で大川(旧淀川)や低湿地の堀以外は徹底的に埋められた。江戸幕府は大坂再建の際にも、惣構え内を壊平し、市街化したので、徳川大坂城は現・外堀内だけの狭小な城郭となった。
したがって、江戸時代の日本各地の城下町は当然のこととして立派な惣構えをもつのに、徳川大坂城は外郭の防御施設をもたないハダカ城同然の城なのだ。大坂の陣後、水運の便のため、東横堀川は復興されるが、基本的に外郭の防御施設を全くもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
かつてあった惣構えの内側の町名に「内」を冠したのは、大坂町人の徳川幕府に対する当てこすりなのかもしれない。さらに、秀吉はこの時、「文禄堤」(全長27キロあったといわれる)と呼ばれる大坂と伏見をつなぐ大動脈を、淀川・宇治川の土手として整備する。
■息をつく閑もない大名たち
淀川は左右両岸に文禄堤を造成するが、京街道が通る左岸を東国大名が、右岸を毛利一族ら西国大名が分担した。京橋はこの築堤に伴って、備前島(現在の都島区片町一丁目から網島町にかけての一帯)から惣構え北岸に架けられた可能性が高い。
役の講和時も次々と発せられる大土木工事命令で、諸大名は息をつく閑さえなかっただろう。山口休庵という武士が『大坂陣山口休庵咄』という記録を書き残している。大坂冬の陣(1614年)の籠城態勢を述べた部分に、以下の一文がある。
「西ハ高麗橋筋横堀の内、南ハ八町目黒門の内、町ヤハ壱軒もこぼち不申候、諸職人諸商人ニて其侭居り申候て、細工諸商売仕候」というように、東横堀川の惣構え内・高麗橋筋周辺と、上町筋の八丁目の黒門(鉄板張りの堅固な城門。黒鉄門ともいう)の内では、商工業者は町屋を壊されることなく平時と変わらぬ生活を続けていたというのである。
深さ11×幅20メートル
惣構え内は武家屋敷町ながら、「八丁目」は天王寺や堺へ通じる道沿いであるから、町中屋敷替え以降も惣構え内にありながら、賑やかな商工業者の居住地だったようだ。西の「横堀」(東横堀川)が大規模な水堀であったのに対して、南惣構え堀は上町台地を東西に横断する空堀(水の無い堀)であった。
「空堀」の名をとどめる空堀商店街の上町筋側東口、すなわち上本町三丁目交差点の南東約50メートルの大手出版社の本社ビル建設に先立つ調査で、南惣構え堀の北肩(堀の縁から斜面にかけて)を検出した。その結果、堀の深さは11メートル以上、幅は20メートル以上あることがわかった。
このビルは交差点の北東隅にあるが、その南の東西道路がへこんでいるのは、堀跡だからである。堀遺構は石垣積みをもたない素掘りの堀で、南惣構え堀は現地形の上にも凹地として姿を止めている。豊臣大坂城は惣構え堀掘削によって、東西・南北ともに約2キロ四方、総面積400万平方メートルにも及ぶ未曾有の大城郭となったのである。
道路のへこみ、商店街の呼称、そして「内」を冠する町名。豊臣の巨大城郭は姿を消したように見えて、いまも大都市・大阪の地形と地名に痕跡を残している。発掘は、その記憶を地下から掘り起こす作業でもある。
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※本記事は、笠谷和比古・黒田慶一著『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










