秀吉が「わずか40日で7000軒の家を新築」 大坂の町を驚くべき速さで作った「仰天の秘策」
大河ドラマ『豊臣兄弟!』もついに後半戦に突入。賤ヶ岳合戦に勝った秀吉は、いよいよ大坂に本拠地を移す。壮大な大坂城、そして城下町も驚くべき速さで出来上がったという。はたして、秀吉はいかにして大坂の城と町を作ったのか。その経緯を新潮選書『豊臣大坂城』(笠谷和比古・黒田慶一著)から一部を再編集して紹介する。
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信長が評した「日本一の境地」
天正11(1583)年4月、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、故主・織田信長の後継者としての地位を確立した豊臣(羽柴)秀吉は、同年9月1日を期して大坂に壮大な居城を構築することにした。大坂は、摂津・河内・和泉の3国を南から北へ貫く上町台地の北端に位置し、信長も「日本一の境地(政権最適地)」(『信長公記』)と見做していた。
それを遡ること90年近く前の明応5(1496)年9月、本願寺第8世宗主の蓮如が、当時「摂州東成郡生玉の庄内大坂」と呼ばれる地に、「一宇の坊舎」を建立した。この大坂御坊が後に大坂(石山)本願寺と呼ばれる大法城の濫觴(らんしょう)であった。
御坊創建の翌年、蓮如の命によって6人の番匠が、町の番屋・櫓・橋・塀・町口の木戸などを造り(『天文日記』)、はやくも城郭的景観が形成された。
一大城郭となった本願寺
本願寺は第10世証如の時、本山の山科本願寺を法華一揆のため焼かれ、天文2(1533)年7月に祖像を大坂御坊に移し、大坂御坊は名実ともに本願寺の本山となった。天文年間(1532~55)にすでに大坂本願寺には専門の城造りの技術者がいて、本願寺城は「摂州第一の名城」(『足利季世記』)と評される一大城郭となっていたのだ。
織田信長と11年にわたる石山合戦が展開される元亀元(1570)年には、加賀(石川県)から城造りの技術者を招いて、城郭施設はいよいよ強化され、『信長公記』によると、中心部の一段高いところに御坊を構え、その周囲に水を満たした堀をめぐらす城構えであったという。
信長は大坂本願寺に味方する難敵を次々に撃破し、ついに天正8(1580)年3月に本願寺との和議が成立し、翌月、第11世顕如は大坂を退出、紀伊鷺森(和歌山市)に移り、最期まで抵抗した顕如の長男教如も8月に退去して、石山合戦は終結した。その直後、本願寺は炎上し丸3日間燃え続け、全てが烏有に帰したという。
5万人による工事
こうして大坂本願寺の地は信長の手に入ったわけであるが、2年後の天正10年6月に起こった本能寺の変で信長が死に、後継者争いの結果、秀吉がこの地を得ることになった。
さて、豊臣大坂城に話をもどすが、当時すでに十数年の滞在歴があり、日本の諸事情に通じていたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、この秀吉の大坂築城について、天正11年度の『イエズス会日本年報(ローマ・バチカンにあるイエズス会本部に送る年度ごとの布教報告書。以下、『日本年報』と略す)』で、次のように伝えている。
「秀吉は、最初は2、3万人をもって工事をはじめたが、竣工を急ぐあまり、今は月々工事に従事する者、5万人に近い」
■最大通商都市の人口に匹敵
当時、国内最大の繁栄を誇っていた国際貿易都市・堺の総人口が、多く見積もっても5万人程度と考えられるから、それと比較しても、秀吉の大坂築城の規模がいかに大きかったかがわかる。
新造の大坂城を見たフロイスは、天正13(1585)年閏8月付けの書簡で、「秀吉は、きわめて宏壮な一城を築いた。その城郭は厳密に言えば5つの塔(1つの天守と4つの櫓)から成っていた。それらのうちもっとも主要な城(詰めの丸)に彼は住んでおり、その女たちも同所にいた。旧城の城壁や濠は、このようにすべて新たに構築された。」
「そして宝物を貯え、武器や兵糧を収容する多数の大いなる地下室があったが、それらの古い部分は皆新たに改造され、警備のために周囲に設けられた砦は、その考案と美観においてやはり新建築に属し、とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」と伝えている。
■本願寺城の縄張りを踏襲
フロイスがこの記録を書いた時の大坂城は現在の本丸のみであり、本丸の縄張り(平面的な形を決める計画策定の過程。築城の最初に建設予定地の区画に縄を張って、石垣や建物を配置していく作業から、このように呼ばれる)は旧城、すなわち大坂(石山)本願寺城のものを踏襲したことがわかる(大坂本願寺は、現在の本丸を中心とし、周囲の寺内町を含めると、現・外堀[二の丸堀]を含めたほどの規模と想定される)。
すなわち本丸をいちから築造したのではなく、本願寺城の縄張りを基礎に、すでにあった土塁を総石垣で化粧し、そこに新規の建物が建てられたがゆえに、秀吉自身の移徙(いし=引越し、天正12年8月)も早めることが可能となったのだ。
瞬く間にできた街
また、フロイスは「秀吉は己の名をあらわすため、大坂に城と市(街)を建てることに決した。彼は市を拡張して、大坂より3レグア(1レグアは4~5.5キロ)を距てた堺の町まで続けんとし、工事を始めたのは本年であるが、家屋はすでに(大坂城から)約2レグアの天王寺付近までできた」と述べ、その進捗について「約40日の間に7000の家が建った」と書き留めている。
町がみるみるうちに出来上がったのには理由がある。タネ明かしすると、天王寺の南東5キロの平野郷の住民を、ことごとく城と天王寺の間に移住させたのである。それで町の名も「平野町」といったのだが、フロイスは、『日欧文化比較』の中で、日本人が加工された建築部材を一ヶ所に集めて、たちどころに建物を立ち上げる技術を、驚嘆をもって伝えている。
他地の建物を解体して運び、組み立てる、いわゆるプレハブ工法によったと思われるが、「石の文化」からやってきた西欧人の目には、瞬く間に新しい都市が出来上がっていく様は、まことに驚くべきものと映ったに違いない。
5万人により、40日に7000軒の新しい町。天下人となった秀吉の意志は、南から北に延びた上町台地の景観を一挙に塗り替えた。その城は本願寺城の縄張りを土台としながら、まったく新しい都市を従えて立ち上がったのである。
※本記事は、笠谷和比古・黒田慶一著『豊臣大坂城―秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略―』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










