「スターの座を捨て渡仏」「夫の不貞、離婚を経て、ジャーナリストに」 岸惠子さんの型破りな生き方 「ライオンとにらみ合い、危機一髪の場面も」 仕事仲間が明かす

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スターの座を捨てて渡仏

 岸さんの人生は波乱に富む。1945年、横浜大空襲の際、12歳の彼女は大人たちに防空壕へ押し込まれるが、ここにいたら死ぬと直感して飛び出し、木にしがみつきながら防空壕が燃えるのを見た。そのとき〈もう大人の言うことは聴かない。十二歳、今日で子供をやめよう〉(『岸惠子自伝』より)と決意する。

 幼少期から国語が得意で作家か物書きになるつもりだったが、高校時代に松竹大船撮影所へ見学に行き、スカウトされて18歳で女優デビュー。53年の映画「君の名は」(大庭秀雄監督、佐田啓二共演)が大ヒットし、主演の真知子役で一躍スターダムを駆け上がる。

 だが、日仏合作映画「忘れえぬ慕情」(56年)に出演した縁から11歳年上のイヴ・シャンピ監督と恋に落ち、スターの座を捨てて渡仏した。57年、24歳のときに現地で挙げた結婚式では、親交のあった川端康成が仲人を務めた。

 世が思い描くトップ女優としての道を歩まず、その時々に自身が決めたことを実行する、当時で言う“男勝り”の生き方。デルフィーヌさんを授かるも、シャンピ監督の不貞が発覚し、別居から離婚へ。別居を始めたのは75年5月1日。後に5月1日を「私の独立記念日」と呼ぶようになる。

ライオンとにらみ合いに

 ベテラン芸能記者いわく、

「その後の岸は、何かにとりつかれたように、やりたいことや自身を突き動かすことに猛進していきます。フランスや日本の自宅で娘と母親のゆったりとした時間を楽しむよりも、語学を生かして世界を飛び回る国際ジャーナリストとして活躍していくのです」

 岸さんが企画・構成に深く関わったノンフィクション特番「ネイチァリングスペシャル ナイル6700キロ、最初の一滴を求めて」(84年、テレ朝系)に同行したカメラマン、山崎裕氏が述懐する。

「ナイル川のドキュメンタリーである番組を作るため、アフリカのウガンダに行ったとき、サファリパークを訪ねるシーンがありまして。トラックで移動中、25メートルほど離れた林からライオンが顔をのぞかせると、岸さんはすぐに車を降りて見つめ合っていました」

 ライオンは去ったものの、

「岸さんは“ヤマ(山崎氏のこと)は私が襲われるところ、狙っていたんでしょ”と言い、私は“当然です”と軽口をたたきました。でも、今思い返してもゾッとするほど危険な瞬間でした」

 わが身を顧みるよりジャーナリストとしての好奇心が勝ったか、体全体で「生」を謳歌(おうか)する姿がそこにはあった。

「音楽祭の取材ではプラハへ、東西ドイツの壁が崩壊する前にはベルリンへもご一緒しました。岸さんが本格的に小説を書き始める前の時期が関係性としては一番、濃かったです。そして8年前の映画祭での関わりが最後となってしまいました」(同)

 それは、山崎氏が立ち上げに加わった映画祭「座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」でのこと。

「岸さんがレポーターを担当したドキュメンタリー番組『プラハの春 人間たちのシンフォニー』(81年)を上映することにしたのです。ご本人に来てもらってトークをしようということになったのですが、登壇の前日に電話がかかってきて、自宅で庭いじりをしていたときに足をくじいて行けなくなったと」(同)

 欠席の理由が“庭で足をくじいた”では格好が悪いため、山崎氏が“インフルエンザで休む”という話にした。

「岸さんからお手紙が届いて“プラハの取材が有意義なもので楽しかった”といった内容を代読しました。後日、その顛末についてご連絡したら“ごめんなさいっ!”って。80代半ばだというのにそれを感じさせない元気な声で。だから、ここ数年で弱ってしまったのだと思います」(同)

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