司馬遼太郎さんに「これこそ絵だ」と絶賛され…“異色の画家”鴨居玲さんが成し遂げた「勇気の要る孤独な大仕事」

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「これこそ絵だ」と評されて

 玲さんは1928(昭和3)年に石川県金沢市で新聞記者の次男として生まれた。子供のころから絵ばかり描いていて、5歳年上の兄(学徒出陣で戦死)と2人で「飛行機や戦車の絵で戦争ごっこをしていたのをおぼえています」(羊子さん)。小学校時代には一時、韓国や大阪でも暮らした。

 青春期は金沢で過ごし、金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)に洋画科一期生として入学。20歳の若さで石川県現代美術展の県知事賞を受賞した。二紀会に初出品で初入選するなど順風満帆だったが、父親が急逝。卒業後は東京で働きながらの制作活動を経て、当時は兵庫県芦屋市にあった田中千代服装学園などで教鞭をとったこともあった。

 田中千代服装学園の同僚には、後に結婚することになった和子さんがいた。彼女がデザインコンテストに優勝したときに「バンザイ」をして、お祝いをかねて1959(昭和34)年、そのまま一緒にフランスへ行った。1961(昭和36)年に帰国したが、「制作に自信を失った」と二紀会を脱退し、ブラジル、ボリビア、ペルーを流浪。この時期にサンパウロ日系人美術団体展で金賞を受賞した。

 そのころ、作家の司馬遼太郎さんは、知人である羊子さんの会社を訪ねていた。そこで玲さんの絵の写真を何枚か見せられ、「これこそ絵だ」と評する。これを彼女は「今の時代に評価されない」と便りをよこしてきていた弟に伝えた。

勇気の要る孤独な大仕事

 鴨居さんはこれに励まされ、スペイン、フランス、イタリアなどを経て1966(昭和41)年に帰国。1968(昭和43)年に大阪の「日動画廊」で個展を開き、その翌年に「静止した刻」で安井賞を受賞した。

 長谷川社長は、

「初めての個展のとき、こんな暗い絵が果たして日本人に受け入れられるかと半信半疑でした。それが受け入れられたのは、彼の技量はもとより、作品の持つ人間臭さのためだと思います。これほど人間臭さを持つ画家はいませんね」

 司馬さんによると――

「世捨てられた老人が路傍にうずくまっていたり、場末の酒場に2人の老人が差し向かいで座っている。顔のしわ、たれ下がった皮膚……ここにしか人生はないと、人生の最後のしたたりだけを描いた画家でしたな」

 また、昭和20年代から30年代にかけて「シュールに非ずんば絵描きに非ず」の時代に、「時流に乗らず、独立を持続するのは勇気の要る孤独な大仕事で、結局は自然死で終わったのだと思う」と、追悼した。

「最後の大爆発をする」と

 長谷川社長も「自分の持てるものが出せればいい。だから長生きだけが一生じゃない、といって、自分を追い詰めて制作していましたからね……」という。

 玲さんの孤独を慰めていたのは、愛犬と、飲めばボトル1本という酒だった。死去の数年前、長く別居していた和子夫人と離婚。

 玲さんと60年代に知り合い、パートナーとして共に暮らしていた写真家の富山栄美子さんは「趣味は、モデルガン。ジョン・ウェインにあこがれ、100近く集めたモデルガンで紙コップを狙って早撃ちするのが得意でした」という。

 10号210万円の画家は、「再来年には東京、金沢、兵庫で個展を開き、“最後の大爆発をする”と張り切っていた」(長谷川社長)が、ついに戒名を遺して、あの世の人となった――。塵外院夢想玲瓏居士

デイリー新潮編集部

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