“選挙互助会”だった「中道」分裂は必然…「立民は公明に“甘い汁”を吸われただけ。2度の失敗に学べなかったダメージは深刻」と専門家
読売新聞オンラインは9月1日、「誤算だった立民の変心、『急ごしらえの合流』限界露呈…与党『選挙互助会だったことを自ら証明』」との記事を配信した。8月31日、中道改革連合、立憲民主党、公明党の3党は党首会談を行い、「合流を正式に断念する」ことを確認した。読売新聞の記事は2月の衆院選で中道が惨敗すると立民側と公明側の距離が浮き彫りになったと詳報。取材に対し立民執行部の1人は「結党は失敗というのが衆院選での国民の審判だ」と総括したという。
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政治アナリストの伊藤惇夫氏は1994年に自民党を退職し、翌95年から新進党の総務局に勤務した。
1993年7月の衆院選で当時の社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の「非自民・非共産」8党は獲得議席の合計が自民党の議席数を上回った。そのため8党は連立政権の樹立に合意。8月の国会で日本新党の細川護熙代表が首相に選ばれた。
だが94年6月に自民党、社会党、さきがけの3党が連立政権を樹立。社会党の村山富市委員長が首相に就任した。
一方、野党に転落した新生党、民社党、日本新党、公明党の一部などは、次の衆院選が中選挙区制ではなく小選挙区比例代表並立制で行われることから「政党の規模が大きくなるほど有利な選挙制度」と合同を決定。94年12月に新進党が誕生した。
伊藤氏は「新進党は95年の参院選と96年の衆院選を戦った後、党内の分裂が深刻化して解散しました。中道の結党に向けて関係者が協議を重ねていた際、新進党の歴史が教えてくれる貴重な“教訓”を思い出した人はいなかったのか、疑問が浮かびます」と言う。
当初から“選挙互助会”
「新進党の時も中道の時も、公明党は衆議院議員を先に合流させ、参議院議員や地方議員は残したという興味深い一致もあります。新進党では当時の幹事長だった小沢一郎さんと公明側の確執が最初に表面化し、徐々に党内がまとまらなくなりました。やはり公明党の議員は昔も今も常に創価学会の方を向いているため、完全に融和して一つになるということが難しい。自民党くらいの巨大政党なら上手く付き合えますが、立憲民主党のレベルだと“甘い汁”を吸われて終わりだったということは、今回の衆院選の結果からも明らかだと思います」(同・伊藤氏)
中道が誕生する前、伊藤氏は複数の立民の国会議員から「公明党と合同すべきか否か」との相談を受けていたという。
「私は『止めたほうがいい』と答えていました。ただし、それは『選挙が終わると、公明側に立民側は吸収されてしまう』と考えていたからです。私は選挙の得票予想は行わない主義ですが、あそこまで“高市旋風”が猛威を振るい、中道が惨敗するとは思ってもいませんでした。『なぜ中道を結党するのか?』という私の質問に、立民の議員は『世論調査の結果を見ると、今度の衆院選で議席が半減してしまう』と答えていました。つまり最初から“選挙互助会”の側面が強かったわけです。そのため肝心の衆院選に敗北してしまえば、急スピードで瓦解するのは必然だったとも言えます」
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