「将門塚に抱きつき」でいくら儲かった? 「迷惑系」が集結するライブ配信サイトの闇 脱退処分でも「本人は痛くも痒くもないはず」
8月22日には首都圏で1時間に100ミリを超える豪雨、翌23日未明には茨城県、埼玉県、千葉県、東京都で最大震度5弱の地震。そのためSNSには「将門の呪いでは?」といった声が溢れた。というのも、3日前の19日、東京・大手町に祀られている「将門塚」によじ登り奇声を発して大騒ぎするという様子をライブ配信した罰当たりがいたためだ。
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「将門塚」は日本最大のビジネス街・東京都千代田区大手町のど真ん中にある。平安時代中期の武将・平将門(903~940)が関東で反乱を起こし、京から送られた平貞盛と藤原秀郷の連合軍に挑むも討ち死に。終焉の地は現在の茨城県坂東市と伝わる。将門の首は京の七条河原に晒されたが、何カ月経っても腐らず、目を見開き、歯ぎしりをしているようだったという。ついには「俺の胴はどこだ」と自分の胴を求めて東のほうへ飛んで行った。その首が力尽きて落下したところが「将門塚」であり、「将門の首塚」とも呼ばれる。ちなみに、坂東市には胴を祀った「胴塚」がある。
古くから「将門塚」は人々に敬われ、不敬な行為に及べば祟りがあるとも言われてきた。その例は国税庁の公式サイトに「大手町の首塚」として紹介されている。
《明治4(1871)年の廃藩置県後、大蔵省は神田橋内の旧姫路藩酒井雅楽守(うたのかみ)邸跡に庁舎を置きますが、かねてよりここには将門の首塚がありました。明治7年、ここに内務省と合同の木造二階建ての新庁舎を建てますが、大正12(1923)年の関東大震災で焼失し、翌年、跡地に仮庁舎を建てる際に首塚が壊されました。/その後、大正15(1926)年、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった早速整爾(はやみせいじ)(1868~1926)が突然亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉(1869~1927)が亡くなるなど続けて不幸があったため、仮庁舎建設に際する祟りが噂されるようになり、昭和2(1927)年に鎮魂碑を立てたといわれています。/大蔵省に関わる祟りが事実か否かは確かめようもありませんが、昭和15(1940)年6月には、落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こり、また、太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。》
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