終戦81年目の夏に明かされた「火垂るの墓」創作秘話――アニメ界の巨人「高畑勲」の自宅で発見された“幻の脚本”に迫る

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取材を受けたくない理由とは

 著者・寺越陽子さんは、以前、ある映像製作会社に在籍した際に、高畑勲監督の密着ドキュメントを制作し、絶大な信頼を得ていた。だが、そのドキュメントも、一朝一夕に実現したわけではなかった。

〈カメラ取材を嫌う高畑さんは、とりわけいわゆる「人物ドキュメンタリー」を毛嫌いしている。これまでも幾度となく密着取材が試みられたが、そのすべてを早々に追い出してしまったという。〉(本書より)

 それでも何とか会うだけ会えたので、『かぐや姫の物語』の制作過程を、ドキュメンタリーとして記録したいと申し込んだ。すると、取材を受けたくない理由を、三つあげたという。

〈一つ目は、「自分一人の問題ではない」ということだ。自ら絵を描く宮崎駿監督とは対照的に、高畑さんは基本的に自分では絵を描かない演出家であり、多くのスタッフとの共同作業によって映画をつくりあげていく。高畑さんを撮るということは、ともに映画をつくるスタッフを撮るということでもある。

「スタッフの中に撮影を望まない者もいる以上、自分だけの判断では許可はできない」――そう話す高畑さんを前に、わたしはただ黙ってメモを取るしかなかった。〉(本書より)

「高畑監督とスムーズに会話できるひとなんて、そうはいないと思いますよ」

 と、先の新潮社OB氏が語る。実は新潮社では1992年に、高畑勲演出による名作テレビ・アニメーション「赤毛のアン」をアニメ・ブックにして刊行している。このOB氏は、その編集を担当した。

「『赤毛のアン』は、1979年にフジテレビ系列で放映されました。キャラクターデザインと作画監督が、『火垂るの墓』とおなじ近藤喜文さん(1950~1998)。一部の場面設定に、宮崎駿さんも参加されています。この全50話をフィルムに焼き直して重要場面を切り出し、コマ・マンガのようにレイアウトして全5巻のアニメ・ブックとして刊行することになったのです。『赤毛のアン』は日本アニメーション株式会社の製作で、テレビ・アニメーション史に残る名作だけに、あまり勝手なこともしにくい。そこで、編集構成上のご希望などがあればうかがっておこうと、高畑さんにお会いしたのです」

 時期的には、「おもひでぽろぽろ」(1991年)の公開後のころだったという。

「アニメ・ブックの編集については、“ご自由にやってください”とのことだったので、気が楽になり、調子に乗ってファン気分でこんなバカな質問をしてしまいました――“監督、よくあんな難しい主題歌を採用されましたね。子どもたちは、歌えなかったのでは?”と」

「赤毛のアン」の主題歌《きこえるかしら》と《さめないゆめ》は、世界的な作曲家、三善晃(1933~2013)の作曲だったが、たしかにアニメ・ソング史上、もっとも難しい曲だともいわれていた。

「すると高畑さんは、“こいつ、バカか?”といったような表情で、“音楽に、難しいとか簡単だとか、あなたは、いったい何を基準にしてそんなことを決めているんですか? 歌える曲が簡単な音楽で、歌えなければみんな難しい音楽なんですか?”と言われました。一瞬にして、まずいことを聞いたらしいと、凍りつきました。そのあとも、音楽論や三善晃について具体例をあげてあれこれ言われたのですが、頭に血が上って覚えていません。高畑さんと芸術論のような話は、気楽にしてはいけないのだと、このとき悟りました」

 寺越さんが最初に取材を申し込んだときの、三つの断りの理由――のこり二つはぜひ本書でご確認いただきたいが、どこか似たものがあるかもしれない。

 だが寺越さんは、その後、取材の許可を得て、スタジオジブリに通う日々がはじまる。アニメーションの現場について何も知らなかったが、素直に学びながら、真摯に取材を重ねていく。その過程は、それこそアニメーションによくある成長物語のようであり、読んでいてさわやかな感動を与えられる。

 もちろん本書の主人公は高畑勲監督だが、著者・寺越陽子さんも主人公のひとりなのだ。「火垂るの墓」を観たうえで読むと、またひとつ新たな世界に出会える、そんな奥行きのあるノンフィクションである。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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