中居正広氏・フジテレビ問題で「第三者委員会」を痛烈批判 古市憲寿氏が指摘してきた「正義の味方」の危うさ
中居正広氏の「第三者委員会」問題
「第三者」の見解は、冷静で客観的な場合もあれば的外れで無責任な場合もある。ところが「委員会」がついて「第三者委員会」となると、急に見解は「真実」と化し、正義の御旗となる――その危険性を9日放送のテレビ番組「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ)で指摘したのは、作家で社会学者の古市憲寿氏と弁護士の橋下徹氏だ。二人が言及したのは、フジテレビの性加害問題に関する第三者委員会の報告書や、その在り方について。
「加害者」とされる中居正広氏に対しての姿勢がアンフェアであった可能性、また本来、フジテレビについての調査をするはずの委員会が、外部の人間である中居氏を実質的に裁き、断罪している点などを古市氏は指摘。こうした意見に橋下氏も法律家の視点から同意を示した。弁護士が自分たちの正しさを過信していないか、神のように振る舞っていないか、というのだ。
実のところ、「第三者委員会」というと大変な権威のように受け止められがちだが、決してそんなことはない。当然ながら捜査機関や裁判所のような機能も役割も持っていないし、ともすれば企業側の免罪符のように使われることも少なくないのだ。
『「第三者委員会」の欺瞞 報告書が示す不祥事の呆れた後始末』の著書がある八田進二・青山学院大学名誉教授は、作家・佐藤優氏との対談で次のように語っている。
「不祥事が起きて第三者委員会が設置されると、どのメディアも『どこまで真相に迫れるか、注目される』式に原稿をまとめますが、それが実際にきちんと評価されることは滅多にないんですね。実は報告書は玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、酷いものもたくさんあるというのが実態です」(佐藤優『国難のインテリジェンス』より)
「第三者委員会に価値を見出したのは、まず企業のトップや経営陣です。不祥事を起こした経営者は連日のように批判の矛先を向けられます。そこでは誰かが何かを答えなければなりません。また手をこまぬいていると、メディアが独自の取材を始めて、隠し通したい事実を探り当ててしまうこともある。そんな時に第三者委員会の設置を発表すれば、状況は一気に変わります。(略)(メディアは)設置した時点でおとなしくなってしまうのです」(同)
八田氏の指摘は、古市氏らの問題意識と重なる。多くのメディアは第三者委員会だから客観的な視点を貫いているはずだ、少なくとも企業からの発表よりも信用できるという無邪気なスタンスを取っている。彼らのクライアントは当の企業であるという点は軽視されがちだし、委員会メンバーの主義、思想その他も無いものとして扱われる。
こうしてお墨付きを得た第三者委員会の報告書は、時に誰かを叩くのに極めて有効なツールともなりうる。それだけに、報告書の作成過程には慎重さや謙虚さが求められるし、それは受け手側も同様だろう。
正義の味方の危うさ
古市氏は著書『正義の味方が苦手です』で次のように述べている。
「いつの時代も、誰かを貶(おとし)めようと思ったら、誰も反対できない『正義』を振りかざすのがいい。たとえ私怨や不純な動機だったとしても、正義感に駆られたピュアな人々が味方についてくれる。面白半分に炎上を盛り上げてくれる人もたくさんいる。『セクハラ』『パワハラ』『性差別』として糾弾される問題の裏側には、ただの人間の好き嫌いや、人事などの俗事が絡んでいるというケースが往々にしてある。
だが『正義』を武器に使った人は、最も『正義』からはみ出さないことが求められる。『正義』という武器は、その使用者に最も深い楔(くさび)を打ち込むのだ。だからその人自身が、いつか『正義』に足をすくわれ、血祭りに上げられるのかも知れない」
これは古市氏が一貫して持っている問題意識と言えるだろう。同書では無邪気に「正義」を信じることの危険性が繰り返し語られている。テレビでのコメントの背景にもこうした考えがあったと言えそうだ。なお、弁護士法の第一条には、次のように書かれている。
「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」
その使命を果たすためには、常に「正義」の絶対性を疑う姿勢が求められるのかもしれない。
「正しすぎる社会は怖い」と説く古市氏の「正義の味方」に関する論考は、新潮QUE掲載の記事【もっと詳しく】〈キャンセルカルチャーがはびこる世界だから学びたい「コンプラ過剰社会」の思考法〉で詳述されている。










