【風、薫る】「また恋愛話か」といわれても 見上愛「一ノ瀬りん」のモデルは40歳をすぎてもモテモテだった

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社会運動家の木下尚江から求婚された

 だが、これから述べる人物が和に対していだいたのは、紛れもない恋愛感情だった。同年5月11日、高田の教会で開かれた廃娼演説会に、弁士として参加した社会運動家の木下尚江である。木下は長野県松本市の生まれで、相馬愛蔵とは旧制松本中学の1年先輩に当たり、東京専門学校でも同窓だったので、以後も親しくつきあっていた。

 東京専門学校卒業後は松本で地元紙の記者を務めたが、政治的主張の強さが原因で退社し、このときは弁護士をめざして勉強していた。この廃娼演説会で、当時はまだ珍しい洋服を着て、オルガンを弾きながら廃娼唱歌を歌っていた和に、木下は一目ぼれしたようだ。木下は「風、薫る」で井上祐貴が演じている新聞記者、横沢公輔のモデルなのではないだろうか。

 このとき木下が21歳なのに対し、和は32歳の11歳差だった。このぐらい年上の女性と年下の男性が結ばれるケースは、当時の日本にはほとんどなく、木下の感情はかなり奇異の目で見られたものと思われる。

 のちに相馬愛蔵の妻になり、黒光という筆名で文筆活動をしていた女性は、木下の和への恋愛について次のように書いている。〈木下氏の愛の好みに大関女史ほどはまった人はなかった、と少なくとも私には考えられる。(中略)氏はよく自嘲するような持ち前の、あの明らかにわざとらしさのある調子で言った。「人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した知恵が面白い」、と〉(相馬黒光著『穂高高原』)。

 それから時間が経過し、木下は明治29年(1896)には「信濃日報」の主筆になったが、県議選の買収事件に巻き込まれ、恐喝詐欺の疑いで逮捕されてしまう。その後、禁錮8カ月、罰金10円などの判決を不服として控訴した木下が、東京の鍜治橋監獄所に収監されると、和はすぐに面会に駆けつけ、その後、頻繁に差し入れを届けるようになった。そうこうするうちに、木下の気持ちはさらに昂っていったのだろう。しまいには和に結婚を申し込んでいる。

40歳になっても浮いた話は終わらなかった

 ところが、この結婚はその後、相馬愛蔵をはじめ周囲から猛反対される。木下は廃娼運動に関わりながら、自分は遊廓に入り浸っていた時期があり、追い詰められていた女郎を救うためだったとはいえ、身請けして囲っていた時期もあった。相馬愛蔵は自分が木下を和に引き合わせてしまった面もあるので、女性関係にだらしのない木下と和が結ばれることには強く反対したという。

 また、医学界を中心にその名が広く知られている大関和が、10歳も年下の男と結ばれたとなれば、当時の社会ではどう中傷されるかもわからず、それを危惧する声もあったという。結果的に木下は和をあきらめ、ほとんどその気になっていた和も、木下と結婚するという道を断念するのである。

 この時点で、すでに40歳になっていた和だが、浮いた話はこれで終わりではなかった。先に引用した黒光の『穂高高原』には、こんな記述がある。〈女史が四十才の頃再び対象におかれた男性があり、女史はその結婚を希望してやまぬのに、この度も又島貫兵大夫等の反対にあい、畳をたたいてその無理愛を口説いた際など、そのひたむきな涙を見ては少女の初恋のような純情が感じられて、どうしてこの人はこうなのかと実際こちらは弱り切ったと、これは島貫氏の述懐であった〉

 島貫氏とは牧師であった。ともかく、和は40歳をすぎても〈ひたむきな涙〉を見せながら〈少女の初恋のような純情〉を感じさせた。看護の先駆者、社会運動家というだけではない。年齢や世間の目に縛られず、人を激しく愛する女性でもあったのである。そういう恋愛体質があり、それゆえにモテたということではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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