本書を読まずして『巨人の星』を語るなかれ! 俗説を覆す決定版評伝『劇画の巨星 川崎のぼる伝』が登場――執筆者、編集者が語る熱い思いとは

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1日ちがいで被曝を逃れる

〈幼い瞳には、燃えさかる炎が映っていた。/漫画家、川崎のぼるが記憶しているもっとも古い光景は、四歳のとき大阪大空襲で見た、燃える家々、そして地平線まで続く燎原の火だった。〉

『川崎のぼる伝』は、この一文ではじまる。川崎さんは1941(昭和16)年、大阪市浪速区の生まれ(現在85歳)。大阪大空襲で家を失った川崎家は、母の故郷である長崎市の親類の家に疎開した。しばらくして家族は諫早の親戚宅に移り、一時、川崎さんだけが長崎市の家に残された。

 諫早から母・光子が迎えに来てくれたのは、8月8日だった。いうまでもなく、翌9日には、長崎市に原子爆弾が投下される。川崎さんは1日ちがいで、被曝を逃れたのだ。だが母は、原爆投下直後の長崎市内にもどり、親戚を訪ねまわった。

〈光子は残留放射能により被曝したのだろう、川崎は母の首筋の下や胸のあたりが、その後もずっと赤いままだったことを覚えている。〉

 終戦後、親戚も含めて11人家族の川崎家は、極貧生活のなかを生き抜くことになる。シベリア抑留から復員してきた父親は放蕩三昧だった。この幼少期の体験が、後年の川崎さんのマンガ作品にどのように投影しているかを、本書はていねいに解き明かしてくれる。ここは、じっくりと読んでいただきたい部分だ。

 やがて当時のほかのマンガ少年たちと同様、1951(昭和26)年、小学校5年の川崎少年は、手塚治虫の『新寶島』(構成・酒井七馬)に衝撃を受ける。この当時、川崎家は、大阪・梅田に転居していた。

〈「本当に絵が動いているように見えた。夜店や駄菓子屋で売られていたほかの赤本漫画とは画力が全然違うんだな。それに、それまで二〇〇ページ近い漫画なんてなかったと思う。すぐ手塚さんの大ファンになってね。」〉(川崎のぼる)

 やがて川崎少年は、手塚治虫を模写するようになる。だが……模写したというわりに、後年、川崎さんの絵柄は手塚とはほど遠い劇画タッチである。なぜか? それは、当時、大阪で頭角をあらわしていた、まったくちがったタッチのマンガ家に興味をひかれたからだ。それが、さいとう・たかをだった。

 川崎さんは、中学卒業後、さいとう・たかをに弟子入りして同居。さらにさいとうが提唱した「新・劇画工房」に参加するため上京し、マンガ家として独立していく。その過程も、細かく描かれている。本書は大きく3部構成だが、ここまでが《第1部 大志》。そしていよいよ、《第2部 巨人の星》に突入する。
(一部敬称略)

【第2回は「“大リーグボール養成ギプス”も“星飛雄馬の燃える瞳”もマンガ家・川崎のぼる氏の“創造”だった! “「巨人の星」は梶原一騎の原作をそのまま描いただけ”という誤解を一蹴する評伝『劇画の巨星 川崎のぼる伝』の凄み」】

森重良太(もりしげ・りょうた)
編集・ライター/1981年新潮社入社、週刊新潮を皮切りに、コミック編集室長などを歴任。『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』(斉藤貴男)、『ニーベルングの指環』(松本零士)、『俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代』『手塚治虫 原画の秘密』などを企画、編集担当。「芸術新潮」2025年7月号の松本零士特集も担当執筆した。

デイリー新潮編集部

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