【豊臣兄弟!】信長の後継者の最右翼だったのに 秀吉につけ込まれ兄に切腹に追い込まれた無惨すぎる弟
周囲も信孝自身も「信長の後継」と考えていた
その信孝は、母親については「坂氏」とだけ伝わる。信長の側室だと思われるが、信忠と信雄の生母であった生駒殿より格下だったようだ。2人とも同じ永禄元年(1558)の生まれで、じつは信孝が先に生まれたが、母親の身分が低かったために出生の報告が遅れ、実際には次男なのに三男とされた、とも伝えられる。
また、信雄が北畠家の養嗣子になる前年、やはり伊勢の神戸家の養嗣子になった。この神戸家は家格も勢力も北畠家には敵わなかったので、その点でも、信孝は信雄よりも格下ということになる。
しかしながら、周囲の評価は一貫して信孝のほうが高かった。秀吉の御伽衆のひとり大村由己による『柴田退治記』には、信孝は「智勇、人に超えたり(知恵も勇気も人並み以上にすぐれている)」と書かれている。『川角太閤記』では、「御覚え御利発の有様、残る所御座なく候(周囲の評判が高くとても利発で、申し分ないご様子だ)」と、まさに絶賛されている。また、信長が本能寺に斃れた翌日、信孝は四国征伐に出かけるはずだったが、その出発前のことについて、フロイスは『日本史』に以下のように書いている。
「父(註・信長)は彼に一万四千ないし一万五千クルザードを黄金で与え、世継ぎである彼の兄と他の武将たちも、彼が一同から愛されており、またそうすることが父を喜ばせることを承知していたので、黄金および高価な品物を贈呈した」(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)
信長は信孝を信頼していたからだろう、多量の黄金をあたえ、兄の信忠やほかの武将たちも、信孝の信頼が、父からも周囲からも厚いのを知っているので、黄金や贈答品を次々に贈った、という内容である。
そのうえ、総大将として明智光秀の軍勢を破ったのだから、前述した『多聞院日記』の記述をはじめ、当時は信孝こそが信長の後継と目され、本人もそう自覚していたようだ。しかし、兄の信雄には、自分のほうが格上だという自負があったため、兄弟の争いが止まないことになったのである。
兄の命で切腹もすべては秀吉の思うつぼ
兄弟が争っていればこそ、清須会議では2人とも織田政権の新体制から外されてしまったわけだが、清須会議では彼らのために決められたこともあった。領主が失われていた所領のうち、尾張(愛知県西部)が信雄に、美濃(岐阜県南部と愛知県の一部)が信孝に割り当てられた。だが、隣り合って国境には大河が複雑に流れている両国の境界をどこに定めるかをめぐり、さっそく兄弟のあいだに紛争が起きている。
ひょっとすると、兄弟を争わせたほうが織田政権を簒奪するうえで都合がいい秀吉による、深謀遠慮だったのかもしれない。
いずれにせよ、兄より格下であろうと、周囲からも後継者と目されている信孝は、一歩も引かずに後継者としての地位を獲得する腹積もりだったと思われる。清須会議では、いずれ安土城に入る三法師を、一時的に信孝が岐阜城(岐阜市)で預かることに決まったが、安土城の準備がなかなか整わなかった。信孝はそのことに乗じて、三法師を手放さないことで自身の優位性をたもとうとしたが、結果的に、この目論見が裏目に出た。
三法師を傀儡にしたかった秀吉は、それができないので、10月28日、丹羽長秀、池田恒興と諮って信雄を織田家の当主に据えてしまった。そして、安土城へ移すべき三法師を手放さない信孝に謀反の罪を着せ、さらには信孝をそそのかして謀反を起こさせたとして、柴田勝家を弾劾した。こうして秀吉と勝家が対立し、そのあいだで信孝は翻弄される。
秀吉は信雄と組んで12月2日に挙兵し、三法師奪還の名目で岐阜城の信孝を攻めた。信孝は降伏せざるをえず、三法師を手放し、秀吉に人質を渡すことになった。その後、勝家が敗れた賤ヶ岳合戦の直前、ふたたび挙兵するが、勝家敗退後、兄の信雄に攻められ、開城している。そして野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺に退くと、兄の命で切腹させられた。兄弟の争いを秀吉につけ込まれた末の結末だった。
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