【風、薫る】看護ができなくなった見上愛「りん」は どうやってナースとして決定的な足跡を残すのか

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高田の病院で残した大きな足跡

 それは第一医院で一緒に働いていた医師の瀬尾原始であった。瀬尾は第一医院で和が、教授陣に追い詰められた時期にもニュートラルな立場を貫いた医師だった。その瀬尾の実家が、高田の知命堂という医院で、引退する父親の跡を継ぐことになったという。ついてはこれから看護婦を募集するが、看護婦長を引き受けてくれないか、という打診を、和は瀬尾から受ける。しかも、いずれ看護婦養成所もつくるので、その教員にもなってもらえれば、という話だった。

『風、薫る』の展開ととても似ている。だが、りんは看護婦をする「自信がない」といって断ったが、和は違った。断るどころか、看護婦に復帰できるのがうれしくて仕方なかったのだろう。高田女学校の舎監の仕事を放り出すことに、忸怩たる思いはあったにしても、すぐに女学校を訪れ、退職を願い出ている。

 ドラマのりんは一人娘の環(英茉)を東京に残しているが、和には長男の六郎と長女のシンという2人の子がいた。高田で看護婦長に就任すれば、これからもずっと子供たちと離れて暮らすことになってしまうが、それでもふたたび看護婦として働ける機会を逃したくなかったようだ。明治24年(1891)11月29日、知命堂病院の開院式が行われ、和もあいさつしている。

 そして和は、この知命堂病院時代に大きな足跡を残している。それは、大流行して多くの人命を奪っていた赤痢への対応だった。高田から数キロ離れた山村で集団感染が発生した際、和が乗り込んで状況を劇的に改善した。当時、隔離すべきと判断された赤痢と診断された患者や、その疑いがある者は、「避病院」という事実上の隔離小屋に収容されたが、入ったが最後、ほとんど生きて出られなかった。だから村人たちはみな抵抗したのだが、和はこの避病院を徹底的に清潔にさせたのである。

鈴木雅の派出看護婦会を手伝うまで

 和が目をつけたのは厠だった。当時の自治体は町や村から離れた場所に避病院を設置したが、病院とは名ばかりで、感染者を収容する場にすぎなかったので、厠すらない場合もあったという。結果として、避病院内は糞尿まみれで、また、感染者が外に出てそこら中で排泄するので、そうした場所があらたな感染源になった。

 そこで和は、村人の力を借りて周囲に多くの穴を掘り、汚物を処理して石灰酸などで消毒した。また、徹底的に掃除と換気を行い、一度には無理でも汚れた布団を入れ替えた。さらに濡れた手拭いで患者たちの体を拭き、手拭いの使い回しは絶対にさせなかった。そうした作業に携わった人は、帰ってきたら水で体を洗い、できれば石灰酸で消毒してもらう。このように清潔を貫いたのだが、これこそがクリミア戦争の野戦病院で、ナイチンゲールが実践したことだったという。

 和はこうした改良を強く提言し、それが各地で実行された結果、避病院に入院した患者の死亡率は激減したという。衛生環境の整備の大切さが日本にはじめて知らされたときだった、といってもいい。

 その後、和は当初に依頼されたとおり、知命堂の看護婦養成所の教員も兼ね、在任中に200人近い看護婦を育てている。結局、高田の地で舎監として1年、知命堂病院で4年半を過ごすことになり、その後、東京に戻っている。鈴木雅が開設していた派出看護婦会を手伝うためだった。『風、薫る』の第18週でも、大家直美は派出看護婦会を開設する。ドラマでは、りんはそこにどのようにしてたどり着くのだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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