「スイッセンガ、イズヲクダサイ……」 美輪明宏さんが描いた“自らの原点” 「戦争文学全集」に掲載された“被爆体験記”の壮絶
「そこは地獄だったのです」
美輪さんは、1935(昭和10)5月、長崎市で、5人きょうだいの次男として誕生した(出生名は寺田臣吾)。実家は丸山遊廓が近く、カフェーや料亭、銭湯を経営しており、比較的裕福だった。幼少期に、母の実家・丸山家に養子に出され、「丸山臣吾」となる。やがて戦火が激しくなり、丸山家は千々岩町(現在の雲仙市)に疎開する。
美輪さんの『戦』は、〈疎開〉と題する、詩のような独白文ではじまっている。
〈僕は国民学校三年生。/継母(おかあ)さんと兄ちゃんと/義弟(おとうと)が二人/小さな旅籠(はたご)の二階には/二つの家族が住み/下には家主達が住んでいた。(略)浜へもよく遊びに行った。/ときどき、エンジンを停めながら/不意に敵機が舞い下りて/僕達に機銃掃射を浴びせかけた。大きな松林が/がっしりと手を拡げて/僕達をかばってくれた。〉
この継母は丹毒を患いながら妊娠し、出産直後、死亡する。美輪さんは「たとえどんなことがあっても、この子達(義弟もふくめて)は僕が立派に育てなければならない」と決意する。
昭和20年の夏休み、美輪さん(臣吾少年)は、長崎の自宅の2階で宿題の絵を描いていた。
〈一面ガラス戸の縁側に置いた机の前に僕は腰かけ、万寿姫の絵を画いて、その出来上がりを確かめるために椅子をずらして立ち上がり、後ろへ二、三歩下がった途端、/ぴかっ/マグネシュウムを焚いたような白い光が、窓の外を、一瞬、写真の陰画と陽画が逆さまになった世界に変えました。/世の中がシーンとして、/(あれ? こんな好い天気に雷光〔いなびかり〕なん……)/思う間もなく、/(!! ……)/幾千万の雷が落ちたよりも凄まじい音響で世界中が轟き揺れ動きました。〉
家は傾き、爆風で机はひっくり返っていた。外へ出ると……。
〈表……そこは地獄だったのです。〉
「僕たちは、だまされていた」
〈荷台の前で、ドサリと横になって死んでいる馬の傍で、馬方らしい人間が、ぴんぴん飛び上がっています。丸裸で全身が紫とも赤ともつかぬ火ぶくれで獣のような声をあげています。/僕は声も立てず走り出そうとした瞬間、/「助けてくれえ!」/と、ひしゃげた声がして何かに押しつぶされた男か女かもわからない人間が頭と手を差し出し、僕の手をつかんだのです。/「ギャー」/僕が夢中でその手を振り払ったら、その人の手や腕の肉が、ずるりと抜けて飛び、その肉の余りが、僕の手首についています。(略)それをもう片方の手で、そぎ落とし、水に溺れる瞬間のような鼓動と思いで走ります。〉
やがて8月15日に終戦。一時避難先から長崎市内へもどると、地獄絵図はまだつづいていた。ひとりの女性が寄ってきて、
〈頭の半分まで、ごっそりと髪の毛が抜けて禿になり、耳の上を首の方にだけ長い毛が下がっています。顔は溶岩に流されたようです。僕は少しずつ後退りしました。/「スイッセンガ、イズヲクダサイ」/火傷で無残にまくれ上がったため、巧く唇の合わさらない女の人が水を欲しがっていることがわかりました。(略)女の人の口へそろそろと流し込んであげました。女の人は顔のどこかで微笑ったようでした。やがて静かになると間もなく息をしなくなりました。〉
そして占領軍のアメリカ兵がやってくる。美輪さんは、彼らの金髪、碧色の瞳、原色のシャツ、長い足に魅せられてしまう。
〈美しい動物達! こんなに美しい動物もいるものかなあと僕は、怖さも忘れて見とれてしまいました。〉
アメリカ兵は、子どもたちにチョコレートを配りながら、品よくにぎやかに歩いている。
〈僕は、だんだんぼんやりと先生達やこの日本人の大人達が僕達に目隠しをするように、僕達子供達を騙していたのがわかってきました。/(バカな大人達、敵を識らないで戦争に勝てると思ったのか。(略)あいつらは男なのに、あんなに美しい彩りの着衣を着ている。僕達に目隠しをしていた奴らが、あの大勢の人々を殺したのだ。日本人が日本人を殺したのだ。僕達が竹槍をこさえたり、睾丸の握り潰し方の演習に必死になっていた頃、こいつらは怖ろしいほど科学的な知性で原子爆弾を創っていたのだ。この悠々とした美しい姿で!)/僕は初めて、闘いに負けたことを感じました。〉
このとき感じたことが、その後の美輪さんの生き方を決定づけたにちがいない。『紫の履歴書』でも「私は、ひとりの人間として、この先も勇気を持って発言することを貫いていきたいと思います。生意気だとか、芸人ごときがなどと悪口もいわれますが、そんなことは平気です」と述べている。
おそらく戦争文学全集に、芸能人の文章が収録されたのは、これが唯一と思われる。
【第1回は「同性愛者からの相談に『公表する必要は、ありませんよ』…美輪明宏さんの“身震いするような正論” 『ヨイトマケの唄』で日本中が“凄まじき才能”を目の当たりにした日」】
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