長男を誘拐されバッシングと人気凋落…「ざんす」で一世を風靡した「トニー谷さん」の悲憤慷慨 復帰後に“つい叫んだ言葉”とは

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「代役」で掴んだチャンス

 トニー谷は東京の日本橋で生まれた。彼が母親の胎内にいる間に実父は死んだ。母親は長唄の師匠だった。府立三中(現在の両国高校)に入学したが、彼は“不良少年”で、撞球場(ビリヤード場)に出入りしたり、松竹少女歌劇に熱をあげたため、3年で中退するハメになった。

 その翌年、母親が病死した。21歳の時、船員のコネで上海に渡り、皿洗いやキャバレーのボーイをやりながら香港、シンガポールを転々したというが、昭和20(1945)年暮れに帰国。翌年、米占領軍の「アーニー・パイル劇場」(旧東京宝塚劇場)に就職、オペラの演出助手までやった。次にアメリカ赤十字クラブの事務局に移り、そこで、秘書だった女性を見染めて結婚、それがたか子夫人である。

 トニー谷の名が一躍知られたのは、米プロ野球「サンフランシスコ・シールズ」の初来日(1949年10月)がきっかけだった。大歓迎会が開かれたが、司会役の松井翠声(まついすいせい)が来られなくなり、急遽、トニー谷が代役として呼ばれたのである。そこで開口一番、「レディース・エンド・ジェントルメン・エンド・ミーちゃん・ハーちゃん!」とやり、割れるような拍手を浴びた。

「吉展ちゃんを捜して下さい」

 それからは、出演依頼が彼の元に殺到した。“トニーイングリッシュ”を駆使し、社会風刺を混ぜ、立て続けにダジャレを連発する舌の滑らかさは、たちまち旋風を巻き起こした。

 しかし、毒舌家でもあり、他の芸能人を公然と貶(けな)したりしたため、大勢の敵をつくった。吝嗇家(りんしょくか)ともいわれ、自己主張が強く、相手から見れば「鼻持ちならない紳士」でもあった。

 誘拐事件から7年経って、このアクの強いタレントは「アベック歌合戦」で再びテレビに躍り出た。「あんたのお名前なんてェの……」と、体をひねる。だが、この身の動かし方が卑猥であると、放送番組向上委員会から槍玉に挙げられた。

 たまたま、「吉展ちゃん誘拐事件」(1963年3月)が起こった。すると、彼は発作的に「吉展ちゃんを捜して下さい」と、番組の中で叫んだ。わが子の誘拐事件の思い出は、常に脳裏にあったようだ。後に、孫が出来ると、「変な人に気をつけなさい」と、時たま長男一家に注意していた。

故人の希望で葬式は行わず

 昭和43(1968)年ごろから、1年のうちの大半を夫婦でハワイの友人の別荘で過ごすようになった。

「4、5年前から体調が悪くて病院通いをしていましたが、去年(1986年)11月、カゼを引いて熱が下がらなかったため、慈恵医大で検査をしたところ、肝臓ガンで、もう手遅れでした。病院でも最後までジョークを飛ばしていました」(長男の妻)

 昭和62(1987)年7月16日、永眠した。69歳。故人の希望により、葬式は行われず、遺体は病院から直接火葬場に運ばれた。戦後の“あだ花”といってもいい異色の芸人だった。

デイリー新潮編集部

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