巨人が“混セの主役”に躍り出て「橋上代行」に“名将”の声も…元巨人4番が“橋上マジック”の成果は「今のところまだありません」と語る理由
野村監督によって“開眼”
この“橋上名将論”がXなどのSNSで取り沙汰される際、「橋上代行は“野村学校”のOB」との言及が目立つ。
プロ野球史上でも屈指の名将として、今も高く評価されている故・野村克也氏の教え子という点に注目が集まっているのだ。
ここで橋上代行の経歴を振り返っておこう。東京の私立高校・安田学園から1983年のドラフトでヤクルトに3位指名を受けて入団。そして野村氏は1989年のオフにヤクルトの監督に就任した。
橋上代行は「web Sportiva」のインタビュー記事で、当時の野村監督から「己を知れ」、「自分がどういう駒だったら、野球選手として生き残っていけるかをしっかり考えなさい」と助言され、それが自身の野球人生を変えるほどのインパクトを与えたと振り返っている。
練習方法から実際のプレーに至るまで何もかも変わったという。まさに野村監督によって“開眼”したと言える。(註)
1996年のオフに金銭トレードで日ハムへ移籍。99年のオフに戦力外通知を受けると、阪神の指揮を執っていた野村氏から請われて入団する。
引退後、2004年11月に楽天の2軍外野守備・走塁コーチに就任することが発表された。これは野村氏が監督としてチームの指揮を執ることを踏まえた招聘だった。実際に野村氏は2005年のオフに楽天監督となり、橋上代行は野村監督の“右腕”となった。
さらに確認しておきたい重要な経歴がある。2011年11月、橋上代行は巨人から1軍戦略コーチとして迎えられた。当時、GMを務めていた清武英利氏の肝煎りで設立された「戦略室」の中核を担うことを求められたのだ。
ヤ、巨、阪の3球団でプレーした広澤氏
この抜擢は「巨人がセイバーメトリクス(統計学に基づく野球分析)を本格導入しようとした最初の大きな挑戦」と位置づけられることもある。
選手としてもコーチとしても“野村ID野球”の神髄を師匠から学んだ橋上監督代行は、まさに「戦略室」の責任者としては最適だったかもしれない。
野球評論家の広澤克己氏は、明治大学野球部から1984年のドラフトでヤクルトに1位指名されて入団。橋上監督代行の1年“後輩”となる。広澤氏も野村氏の薫陶を受けたことは言うまでもない。
その後、1994年のオフにFA宣言を行って巨人に移籍。この時は故・長嶋茂雄氏が巨人の指揮を執っていた。さらに99年12月に阪神へ移ると、2000年からは野村氏、02年からは故・星野仙一氏の下でプレーした。
橋上代行と広澤氏の経歴には様々な共通点があり、多くの人脈が重なり合っているわけだが、広澤氏は橋上代行の指揮をどう見ているのだろうか。
「橋上代行が巨人の指揮を執るようになってから、『なるほど、これが橋上采配なのか』と印象に残った場面があったのかと訊かれれば、『今のところはありません』と答えざるを得ません。交流戦から巨人の好調が始まりました。基本的に今の巨人は若手主体のチームで、いわゆる“日替わりヒーロー”が相次いで誕生することで勝ち進んでいると総括していいでしょう」(同・広澤氏)
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