【豊臣兄弟!】本能寺の変の首謀者は“光秀ではない男”だった…信長にいだいた恨みは光秀の比ではなかった
信長討伐に前のめりだった斎藤利三
光秀自身、立場を失ったに違いないが、筆頭家老が一族もろとも存続の危機に置かれたとしたら、それ自体が一大事だった。戦国大名が領国を維持するためには家臣団こそが命綱で、その結束が崩れれば、領国の統治もままならなかった。斎藤利三が立場を失ったことで光秀が突き動かされた――。それは大いにありうる。
本能寺に信長を襲ったのは利三で、光秀は8キロほど南の鳥羽にいた、と記された史料が近年見つかった。この内容も、いかに利三が信長討伐に前のめりだったかを示していると思う。史料とは、加賀藩の兵学者だった関屋政春が記した『乙夜之書物』(全3巻)で、その記述を発見した京都女子大講師の萩原大輔氏が、『異聞本能寺の変―『乙夜之書物』が記す光秀の乱』(八木書店)を刊行している。
変から八十数年後の寛文9~11年(1669~71)に書かれた聞き書きなので、信憑性を疑う向きもある。しかし、著者の関屋に話をした井上重成は、斎藤利三の三男で父と一緒に本能寺で信長を襲撃した利宗の甥だ。叔父の利宗から聞かされた話を政春に伝えたのだという。時間が経ってから書かれた二次史料ではあっても、伝えているのは本能寺の変に参加した当事者の話である。信頼性は高いと思う。脚色だと疑う向きもある。だが、上巻の奥書には、〈ゆめゆめ他人に見せ給うべからず(決して他人に見せてはいけない)〉と書かれている。人に読ませたくない書物を脚色する動機は、常識的には存在しない。
さて、『乙夜之書物』には、本能寺の変についてこう書かれている。〈本能寺ヱハ明知弥平次斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカヱタリ(本能寺へは明智秀満と斎藤利三が率いる2000余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた〉。むろん、司令官たる光秀が「指ムケ」たのではあるが、みずからの手で信長を討ちたいという利三の強い思いが汲まれた結果ではなかったか。実際、同書によれば、前日に光秀が丹波亀山城(京都府亀岡市)で謀反を打ち明けた際、利三は「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒は私が務める」と主張したという。
延期がいつからのことはわからないが、利三がかなり前のめりだったことは伝わる。
数日前に信長から切腹を命じられていた
では、なぜ光秀は、8キロ南の鳥羽にいたか。『乙夜之書物』の記述を発見した萩原氏は、信長を討ち漏らしたときのことを考えたのではないか、と推測している。このとき安土城には兵力が残っていなかったが、大坂には三男の信孝が率いる四国攻めの軍勢1万4000が控えていた。信長にすれば、軍勢が集結している大坂に逃げたほうが謀反に対抗できる。光秀はそれを見越して、大坂への交通の要衝である鳥羽に控えていた、というのだ。
ところで斎藤利三は、信長に滅ぼされた美濃の斎藤家に連なる家柄で、西美濃三人衆の一人の稲葉一鉄に仕えていたが、不遇だったこともあって光秀の家臣に転じた。その後、光秀が大いに重用したのだが、あえて歴史に「if」を持ち込めば、光秀が稲葉家から利三を引き抜いたりしなければ、本能寺の変は起きなかった、という言い方もできる。
じつは、光秀が利三を引き抜いた結果が、本能寺の変の直前にも波紋を呼んでいた。光秀は、稲葉一鉄の家老の那波直治も引き抜いて家臣にしたのだが、これに反発した一鉄が信長に泣きついた。それを受けて信長は、直治を稲葉家に戻すように言い渡したが、そのうえ利三に切腹を命じていたのだ。この引き抜きをあっせんしたのが、稲葉家の元家臣である利三だったからだ。
周囲が執り成して切腹は免れたが、利三は信長への不信感をいっそう募らせたに違いない。この切腹沙汰は本能寺の変の直前の5月27日のことだった。
このように斎藤利三は、信長を討つことに関してやまれぬ気持ちが、募るばかりだったのである。
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