【豊臣兄弟!】本能寺の変の首謀者は“光秀ではない男”だった…信長にいだいた恨みは光秀の比ではなかった

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「彼こそは本能寺の変の首謀者だ」

 織田信長が登場する映画や歴史ドラマ、とりわけNHK大河ドラマでは、最大のクライマックスのひとつが、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変だと相場は決まっている。放送中の「豊臣兄弟!」も第27回(7月12日放送)のサブタイトルは、その名もズバリ「本能寺の変」だ。

 この謀反、またはクーデターは、信長に対する明智光秀の恨みが募った末に起きたものだと説明されがちで、そう理解している人が多い。その見方はまちがいではないが、光秀以上に信長への恨みを募らせ、おそらくは光秀を動かし、自身も不退転の決意でクーデターに臨んだ人物がいた。「豊臣兄弟!」では内藤剛志が演じる明智家の筆頭家老で光秀の腹心、斎藤利三である。

 本能寺の変の事実上の首謀者が斎藤利三であることは、同時代の京都などでは理解されていたようだ。たとえば、公家の勧修寺晴豊や山科言継は、本能寺の変後に捕らえられ、京都市中を引き回される利三の姿を見て、「彼こそは変の首謀者だ」という旨を、それぞれ『晴豊日記』と『言継卿記』に記している。

 それでは、なぜ利三は信長への恨みを募らせたのか。それは「豊臣兄弟!」では磯部寛之が演じている土佐(高知県)の戦国大名、長宗我部元親との関係に起因していた。一言でいえば、斎藤家と長宗我部家は、浅からぬ縁戚関係にあったのだ。

 長宗我部元親の妻は、室町幕府の奉公衆だった石谷光政の娘だが、この光政は斎藤利三の義理の父でもあった。というのは、光政は利三の母の再婚相手で、利三の実兄の頼辰は光政の養子になり、石谷頼辰を名乗っていた。つまり利三も兄の頼辰も、元親夫妻とは義理の兄弟の関係にあったことになる。兄弟ともに光秀に仕えていたが、斎藤家と石谷家の存立基盤は、むしろ長宗我部家に拠っていたといえる。

信長の方針変更でつぶれた面目

 実際、この長宗我部家との関係がゆえに、斎藤利三は、そして主君の明智光秀は、信長から重要な役割をあたえられることになった。信長と長宗我部元親のあいだを取り持つ「取次」(仲介役)である。元親との直接のやりとりは石谷頼辰が務めた。

 信長は当初、長宗我部元親に、四国全土を自由に制圧してよいと伝えていた。元親を支援することで、長年争っていた大坂本願寺(大阪市中央区)を助ける阿波(徳島県)の三好一族に対抗しようとしたのだ。そのころは光秀も利三も、元親とのあいだを仲介して、信長から評価される立場にあった。

 ところが、三好康長が信長に臣従し、本願寺との和睦も成立したことで、信長は方針を転換した。元親に対し、土佐一国と南阿波の2郡だけの支配にとどめ、それ以外の制圧した地域は差し出すように命じたのだ。それを元親に告げるのが取次である光秀と利三の役割であり、とりわけ元親との縁戚関係にある利三は、面目をつぶすことになった。

 元親が難色を示すと、信長は天正9年(1581)11月、四国東部の支配を三好康長にまかせることにしてしまう。そして翌年1月、元親に許すのは土佐一国だけにするとの方針を提示。光秀と利三は、長宗我部家の滅亡を避けるためにも信長の判断に従うようにと、必死の説得を試みた。平成26年(2014)に発見された「石谷家文書」には、本能寺の変のわずか10日ほど前に、元親から利三に譲歩案が送られていたことが記されている。阿波からの撤退は検討するが、一部の城は残させてほしいという内容だった。

 ところが、信長はこの譲歩案を無視して、三男の信孝を総大将とする四国出兵を決断してしまった。それはいわば長宗我部家を滅ぼすための戦いだから、斎藤利三にすれば、もはや面目云々を超えていた。実兄の家族を含め、自分の親族が滅ぼされかねないことを意味していた。

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