「よし、うちがやる」…“家賃6万5000円”のアパート暮らし「氷川きよし」の歌手人生が決まった“演歌界のドン”の前での絶唱

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銀行の残高が100円に…

 歌手になることについて父親は賛成したが、母親は反対だった。一人っ子の息子を、右も左も皆目わからない東京に送り出すことへの不安が理由だった。しかし、氷川はNHKのコンクール番組に出演した際、作曲家・水森英夫にスカウトされ、未知なる芸能界へ一歩を踏み出すと決めていた。

 上京後は東京都庁の近くの商店街にある、家賃6万5000円のアパートに住んだ。そこは水森の自宅のすぐそば。

 実は筆者は、不思議な経験をしている。当時、住んでいたのは氷川のアパートがある同じ町内だった。あるテレビ番組で、氷川が通っていたコインランドリーが紹介されたのだが、見たことがある光景だったので何日か後に前を通り、たまたま幹線道路の向こう側にある別の商店街まで足を伸ばした。すると偶然にも「水森英夫」の表札がある豪邸の前に出たのだ。その時、氷川は同じ道を歩いて水森宅で行われるレッスンに通っていたのかと納得したのだった。

 この頃の氷川はアルバイトの毎日で、銀行の残高が100円のこともあったとか。慣れない都会の生活にホームシック気味で、母親に毎日電話していた。一月の電話代が4万円だったこともある。

 そんな生活も3年目に入っていた。水森はデモテープを送って氷川を売り込んでいたが、ことごとく断られた。当時は演歌離れが進んで、演歌歌手は着物を着て歌う女性歌手ならまだしも、男性は門前払い同然。

 そこで「これが最後」と決めて、ある作戦を考えた。事務所に行き、水森がつま弾くギターに合わせ、氷川が歌う。申し出を受けてくれたのが長良プロで、氷川は音楽業界の実力者だった故・長良じゅん会長の前で、大声で歌った。

 筆者も長良会長には2度ほどお目にかかったが、挨拶した瞬間から知らぬ間に背筋がピンと伸びていた。氷川の緊張感もいかほどだっただろうか。そして長良会長の一言で氷川の歌手人生が決まった。

「よし、うちがやる」

 会長は「大当たりか大外れの一か八か」の勝負で氷川を引き受け、この賭けは見事に当たった。デビュー曲「箱根八里の半女郎」は160万枚の大ヒット。4枚目のシングル「きよしのズンドコ節」は代表曲の一つになった。氷川は「演歌界の貴公子」としてスター街道を突っ走った。

母の作るがめ煮

『わたしはあきらめない』発売の頃、両親は東京に来たことがなかった。しかし、「おふくろメシ」を聞いた頃には紅白歌合戦に出場して正月を迎えると、「母ががめ煮を作ってタッパーに入れて持って来てくれるのですが、それをお屠蘇をごくごく飲みながら食べる」のが恒例になった。

 スターになり、親子水入らずで正月を送る夢も実現した。

 そんな氷川の変貌に関しては「限界突破×サバイバー」を聴いてピンとくるものがあった。ポップス調やロック調について前掲書でこう語っていた。

〈3年間演歌でやってダメだったら、今度はポップスかロックで、また一からやり直そう。ポップス歌手を目指そうかなと思っていました〉

 24年には長良プロを退社し、新会社を立ち上げて活動している。家族、母親への思いは変わらず。周辺環境は変わりつつも、氷川は歌うジャンルを広げながらもずっと思いのままに生きているのではないか。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部

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