佐々木麟太郎は“異例の時間差入団”となるか 昭和ドラフト史に見る「指名から9カ月後」の成功例

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 ドラフト1位指名から9カ月後に、まさかの入団はあるのか。

 昨年10月のドラフトでソフトバンクから1位指名を受けたスタンフォード大・佐々木麟太郎が、にわかに注目を集めている。7月のMLBドラフト(米国時間11、12日=日本時間12、13日)の結果いかんでは、今夏にも「ソフトバンク・佐々木」が誕生する可能性が出てきたからだ。【久保田龍雄/ライター】

魔球・カミソリシュートを武器に大躍進

 通常、ドラフトで指名された選手の入団は、翌年の春季キャンプまでに完了するのが一般的である。近年の感覚からすれば、指名から半年以上が経ってからユニフォームに袖を通すケースはかなり珍しい。

 だが、昭和のドラフト史をひもとくと、佐々木のような“時間差入団”は決して前例がないわけではない。1978年に江川卓の「空白の1日」事件が起きるまで、交渉期限は最長で翌年のドラフト会議開催日の前々日まで認められていた。そのため、指名から半年以上を経てプロ入りし、その後、球史に名を残した選手も少なくない。

 ドラフト指名から約9カ月後に入団し、通算201勝で名球会入りを果たしたのが、大洋・平松政次である。

 岡山東商のエースだった1965年、センバツで39回連続無失点の大会記録を樹立し、優勝投手になった平松は、同年の第1回ドラフトで中日から4位指名を受けた。中日は契約金2000万円という破格の条件を示したが、当時、巨人入りを熱望していた平松は入団を拒否し、日本石油に入社した。

 翌66年も2次ドラフトで大洋から2位指名を受けた。同年は9月に高校生と社会人、11月に国体出場の高校生と大学生、前年の交渉権が切れた社会人選手を対象に、ドラフトが2度開催されている。だが、平松は「社会人野球でもう1年やり、力をつけてからプロ入りしたい」として、入団を保留した。

 そして翌67年、平松は日本石油のエースとして都市対抗野球優勝に貢献し、MVPに相当する橋戸賞を受賞した。ただ、大会終了が8月8日、大洋の交渉期限が同10日だったため、交渉できる時間はわずか2日しかなかった。

 さらに、平松は8月25日から東京で開催されるアジア選手権大会の全日本メンバーにも選ばれていた。日本石油も都市対抗優勝後に米国遠征を予定していたことなどから、会社側や本人の事情もあり、大洋入団を断って秋のドラフトを待つ可能性が高いとみられていた。

 それでも、都市対抗優勝という目標を達成したことで、会社側もプロ入りを容認する。8月9日の入団交渉は条件面で折り合わず、物別れに終わったものの、翌10日、岡山東商OBの秋山登コーチらの尽力もあり、最終期限ギリギリで入団が決まった。

 1年目は3勝、2年目は5勝と伸び悩んだ平松だったが、3年目に魔球・カミソリシュートを武器に大躍進。2年連続リーグ最多勝を含む12年連続二桁勝利を記録し、巨人キラー、長嶋茂雄キラーとしてならしたのは、ご存じのとおりだ。

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