佐々木麟太郎は“異例の時間差入団”となるか 昭和ドラフト史に見る「指名から9カ月後」の成功例
阪急に入ってから治したら
名球会入り投手といえば、通算284勝を挙げた阪急のサブマリンエース・山田久志も、前出の平松と同じく、ドラフト指名から約9カ月後の入団だった。
富士製鉄釜石入社1年目の1967年、都市対抗野球で優勝候補の日本生命を完封して注目を集めた山田は、同年のドラフトで意中の球団のひとつだった西鉄から11位指名を受けた。しかし、世話になったチームを半年で退部することをよしとせず、残留を選んだ。
翌68年、山田は5月の全国社会人野球大阪大会で3試合連続完封を記録するなど、さらにパワーアップ。同年のドラフトで阪急から1位指名された。
だが、練習中に腰を痛めた山田は、翌年1月に脊椎分離症と診断される。担当スカウトから「阪急に入ってから治したら」と声をかけられたが、「それでは迷惑をかけてしまいます」と答え、完治後に入団する約束を交わした。
幸い、リハビリと筋トレを経て、翌69年4月には投球を再開できるようになった。そして都市対抗出場後の8月11日、阪急と正式契約を交わした。
この結果、阪急はドラフト1位の山田に加え、2位・加藤秀司、7位・福本豊と、後の主力3人を同じ年のドラフトで獲得した。彼らは1970年代の黄金時代を築き上げる原動力となる。
巨人側も「入団は次の年でいい」
人気球団の巨人に指名されながら、入団が1年遅れたのが、1976年のドラフト3位・角三男である。
米子工時代に投手ながらクリーンアップを打っていた角は、三菱重工三原入社後も、打力を生かして一塁を守っていた。だが、投手への未練があった角は、「2年間やってダメだったら、打者に戻る」という条件で、入社2年目の1976年から本格的に投手へ挑戦。サイドスローからの速球を武器に、社会人屈指の左腕へと成長した。
同年夏の都市対抗野球では、マツダの補強選手として新日鉄堺戦で完封勝利を挙げた。この投球が巨人スカウトの目に留まり、ドラフト3位で指名されることになる。
巨人は憧れの球団だった。それでも角は、投手転向を認めてくれた会社に十分恩返しできていないまま、実質1年でプロ入りすることに申し訳なさを感じていた。そこで「社会人野球でもう1年やり、力をつけてからプロ入りします」と、1年後の入団を希望する。巨人側も「入団は次の年でいい」と快諾し、翌77年11月10日に正式契約した。
「昔の江夏豊さんのように、速球で勝負できる投手になるのが目標」とプロでの活躍を誓った角は、81年に8勝20セーブで最優秀救援投手賞に輝き、チームの7年ぶり日本一に貢献した。
このほか、1979年のセ・リーグ新人王・藤沢公也(中日)、1976年のセ・リーグ最多勝・池谷公二郎(広島)、1984年のセ・リーグ最優秀投手・山根和夫(同)、通算107勝の三沢淳(中日)らも、ドラフト指名から時間を置いて入団し、プロで花を咲かせている。
現時点で、佐々木がソフトバンク入りするかどうかはまだわからない。MLBドラフトの結果次第では、米国でのキャリアを選ぶ可能性も当然ある。
それでも、もし今夏に入団が実現すれば、近年のドラフトでは極めて珍しい「指名から半年以上を経ての1位入団」となる。しかも佐々木は、高校時代から日本中の注目を集めてきたスラッガーである。
平松、山田、角らがそうだったように、入団までに時間を要したことが、その後の活躍を妨げるとは限らない。むしろ、紆余曲折を経てプロの世界に飛び込んだ選手ほど、強烈な物語を背負うことになる。
はたして「ソフトバンク・佐々木麟太郎」は誕生するのか。そして実現した場合、昭和の名選手たちに続く“時間差入団”の成功例となるのか。MLBドラフト後の決断から目が離せない。






