死後に“極秘結婚”発覚で大騒動 「しゃぶり尽くしたヒモ」と呼ばれた歌手「青江三奈さん」の夫 10年後に語った“出会いから別れ”まで

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青江さんの遺産の4分の3を相続

第1回【「助けてほしいと電話が入った」「しゃぶり尽くしたヒモ」…歌手「青江三奈さん」死去後の“極秘結婚”騒動 遺族と関係者が「夫」を信じなかった理由】を読む

 ブルース界の巨星、青江三奈さんが膵臓がんでこの世を去ったのは、2000年7月2日のことだった。その際に“極秘結婚”の相手であることを公表し、騒動の原因となったのは、作曲家の花礼二氏。青江さんの遺産の4分の3を相続した花氏を前に、遺族と関係者、そしてマスコミは結婚の“動機”を疑問視した。

 しかし、遺族は青江さんのイメージを守るため、全面対決に持ち込まなかった。そして2001年5月、遺産を巡る確執はいったん幕を下ろす。当時の花氏は「週刊新潮」にこう語った。

「彼らはやはり、僕が突然現れて入籍したことを怪しいと思っていたし、そう口にもしていた。だから婚姻届の筆跡鑑定もしたんでしょう。でも、あれは本当に三奈が自分で書いたもの。モルヒネを打っていて、最初は手が痙攣していましたが、すらすらと記入しました。印鑑だけは押すことができなかったので、私が代わりに押しましたが」(2001年7月19日号)

 それまでの経緯を伝えた第1回に続き、第2回では騒動から10年後、「週刊新潮」が敢行した花氏のインタビューを再録する。花氏から見た青江さんとの「出会いと別れ」、「遺産騒動」の裏側とは。

(以下、「週刊新潮」2011年7月14日号掲載記事を再編集しました。文中敬称略)

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巣鴨のバーで1年間、歌を教えた

「仏壇には、納骨の際にほんの少しだけ別の入れ物に移したお骨を置いてある。実際に三奈の一部があると思うと、心が休まるんです。そこに朝から晩まで話しかける。『おはよう』『行ってきます』、そして寝る時には『おやすみ。夢で逢おうぜ』なんて、生前には決して言わなかったセリフまで……アイツには、「やめてよ』と言われそうですが」

 青江の命日の7月2日。相模湾を望む熱海の高台に建つ瀟洒な借家を訪ねた記者を、花さんはリビングに招き入れ、そう語り始めた。歌手・青江三奈を見出し、ハスキーボイスの「ブルースの女王」に育てたのがこの人物であることは知る人ぞ知る事実だ。

「三奈との出会いは、ナンパでした。彼女は高校卒業後、池袋・西武百貨店で化粧品を売るマネキンをやっていた。江ノ島に一緒に遊びに行こうと俺と友達2人が化粧品売り場でナンパした子が連れてきたのが、19歳の彼女だった。当時の三奈は、どこから見てもただの田舎娘。歌も“私は美空ひばりと島倉千代子を聴いて育ったから、演歌しかしらない”と言ってた。

 でも、俺はシャンソンやラテン音楽が好きだと言ったら興味を示し、試しに『タブー』(1930年代のラテン音楽)を歌わせてみたら、とんでもなく勘が良くて仰天した。意地悪してリズムをずらしても、ちゃんとついてくるんです。“この子は何か持ってる”と思って、以来、彼女の終業後、巣鴨のバーで歌を教える日々が1年間続いた。レッスンを休んだのは元日だけだった。この年の暮れ、大井町の4畳半のアパートで、俺と三奈は同棲を始めた」

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