【豊臣兄弟!】父の仇の信長が大いに目をかけ 本能寺の変後にさらし首になった信長の甥っ子

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信長と光秀の両者から信頼され

 その後は、明智光秀の丹波(京都府中部、兵庫県北東部)の攻略を救援し、光秀の強い信頼を勝ち取る。それに前後して信澄は、光秀の娘を正室に迎えたが、そのことがのちの信澄の運命を大きく左右することになる。

 光秀との縁は続く。天正6年(1578)2月、養父の磯野員昌が信長に叱責され、高野山へ追放になると、員昌の所領だった近江国高島郡(滋賀県高島市)が、そのまま信澄の所領になった。そこは南方に広がる光秀の所領と隣接していた。

 信長は信澄に、安土城の対岸約18キロメートルの大溝に城を築かせた。これは琵琶湖の制海権を掌握するための戦略で、信長は安土城のほか、光秀の坂本城(滋賀県大津市)、秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)、そしてこの大溝城と、四方に城を配置することで、琵琶湖を完全に自分の掌中においた。また、江戸時代後期に成立した『鴻溝禄』の記述だから信用できるわけではないが、大溝城を設計したのは光秀だといわれる。

 いずれにせよ、年を追うにつれ信澄は、武将として信長の高い評価を得ると同時に、岳父である光秀の強い信頼も勝ちとっていく。

 大坂本願寺への攻撃にも、信長の嫡男の信忠に従って参陣し、天正8年(1580)8月、いよいよ本願寺が明け渡される際には大坂に下向し、本願寺受け取りの検使を務めた矢部家定を警護。以後は大坂に司令官として常駐し、事実上、大坂の地を仕切ることになった。

 信長は大坂を日本一の土地と評価し、いずれ天下を一統した暁には、政権を大坂に置くつもりだったとされる。その大坂をまかされたのだから、信長の信澄への信頼が、いっそう高まっていたことがわかる。

謀反の噂であっという間に討たれた

 そこに天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起きる。

 その直前に信長の命で、京都から堺に向かった徳川家康の接待役を、丹羽長秀と一緒に務めていた信澄だったが、本能寺の変後の混乱のなかで、明智光秀の娘婿であったという事実が、信澄に不幸をもたらすことになった。

 6月3日、つまり変の翌日、信長の三男の信孝を総大将とする軍勢が四国征伐に向かうはずだった。その軍には副将として、丹羽長秀と織田信澄の名もあった。しかし、信長と信忠が討たれ、渡海は急遽中止された。そこまではよかったが、信澄が舅の光秀と共謀して謀反を起こした、という噂が駆けめぐったのである。

 疑いを明白に否定する材料はないものの、信長に大いに目をかけられていた信澄である。いくら舅が謀反を起こすからといって、共謀する動機がない。しかし、信澄が光秀の娘婿であることには変わりなかった。信長は信澄の親の仇だったから、噂がなおさら信じられやすかったのかもしれない。

 疑心暗鬼になった信孝と丹羽長秀は、とにかく真っ先に大坂城(大坂本願寺跡地)の信澄を攻め、討ち取ってしまった。しかも、信孝の命で、その首は謀反人のそれとして堺の町にさらされる、という不幸まで重なった。

 興福寺の僧、英俊が記した『多聞院日記』には、本能寺の変の3日後である6月5日の条に、この日に討ち取られた信澄を指して、「一段逸物也」と書かれている。これは「ほかにないほどの傑物だ」という意味で、その死を惜しんでいる。そんな傑物がどさくさに紛れて殺される。それほど本能寺の変は、武将たちに動揺を強いたということだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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