【豊臣兄弟!】NHK大河は明るくかわいく描きすぎ 史実の秀吉と秀長は信長より残酷だった
数百人が死んで悔いる秀長は数千人を餓死させた
そもそも、秀吉による1年10カ月にわたった三木城攻めは、きわめて残酷だったが、一方で合理的でもあった。この時代、武将ならだれでも、自軍の兵士の損失をできるだけ少なくするため、真っ向からぶつかる野戦は可能なかぎり避け、自軍には被害がでない兵糧攻めや水攻め、調略による寝返り工作などに頼るのが定石だった。
そこで秀吉は、三木城に対しては徹底した兵糧攻めを行った。城の周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築く臨時の城)を築いて包囲し、食糧の補給をすっかり断ち切ったのだ。その結果、三木城内は「三木の干殺し」として知られる、きわめて凄惨な状況に陥った。食糧が底をついてからは、牛馬のほか壁の土や草の根まで食べ尽くされ、ついには餓死者の肉まで食されたと伝わる。城内には別所氏に同調した武士とその家族のほか、浄土真宗の門徒なども含め、約7,500人が立て籠っていたが、そのうち1,000人から数千人が餓死したと記録されている。
『豊臣兄弟!』の秀長は前述のように、有岡城の六百数十人の人質が信長に殺されたことを深く悔いて、三木城の籠城者を救うように強く訴える。しかし、そもそも秀吉と秀長が仕かけた三木城攻めによって、有岡城の犠牲者の何倍もの人数が餓死していたのである。仲野太賀演じる小一郎のように、人命救出がそれほど大事なのなら、「三木の干殺し」なる戦術など、絶対とるべきではなかった、ということになってしまう。
籠城者の皆殺しなど残酷なことを言い出すのは、『豊臣兄弟!』の定石どおり、信長の嫡男の信忠で、豊臣兄弟は人命優先のヒューマニストとして描かれている。だが、ヒューマニストが何千人も餓死するような戦術をとるだろうか。これだけの餓死者を出しながら、秀吉と秀長はまったく悔いていなかった。そのことは、それから天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変までの2年余りのあいだに、「鳥取城の渇え殺し」「備中高松城の水攻め」と、同じ戦術を2回も繰り返していることからわかる。
戦国時代の考え方からかけ離れている
また、『豊臣兄弟!』では、最後は秀吉が三木城を訪れて降伏をうながし、別所長治が切腹する代わりに、家臣やその家族は救われるようだ。しかし、三木城の落城はそんなに穏やかなものではなかった。
天正8年(1580)1月6日、秀吉と秀長は籠城者が飢え切った三木城への総攻撃を開始し、17日に別所長治以下、叔父の賀相、弟の友之の3人が切腹した。では、残りの城兵らはどうなったかというと、秀吉と蜂須賀正勝が宇喜多直家に伝えたところでは、一カ所に押し込められ、ことごとく殺されたという(『沼本家文書』)。秀吉が土佐(高知県)の長宗我部元親に宛てた手紙にも、城兵の首はことごとくはねたと書かれている。
つまり、残酷な仕打ちや凄惨な殺戮は、決して織田信長やその子たちの専売特許ではなかったのである。秀吉は必要とあれば、ある意味、信長以上に残酷なことを平気で行い、秀長もそれを平気で助けた。
それを現代の価値観で「残酷」と言い切るのは簡単だが、甘い顔をすれば、自分がいつ寝首をかかれるかわからなかった時代である。戦国の荒れた世を平定するためには、そのくらいの荒療治が必要だった、少なくとも必要だと信じられており、それを今日の価値観で判断してはいけないと思う。
ところが、残念ながら『豊臣兄弟!』では、兄弟を明るく、かわいく、温かい人間として描こうとして、彼らが行った残虐行為は描かないか、信長父子のせいにするかしている。ドラマ全体を否定するつもりはないが、ドラマで描かれる秀吉と秀長の発想が、戦国時代のものの考え方、また、史実における秀吉と秀長の考え方からかけ離れたものであることはまちがいない。
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