「フラット3の申し子」森岡隆三氏が明かす「日韓W杯」までの秘話…「3人のDFが阿吽の呼吸で動けるようになるまでトレーニングを積み重ねたんです」

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 2002年の日韓W杯でトルシエ監督率いる日本代表の主将を務めた森岡隆三氏は、J1から数えて4部相当にあたるJFL・クリアソン新宿のアカデミーヘッドオブコーチングとして、若手世代の指導にあたっている。森岡氏に、現在の心境、そして自らのサッカー人生について、改めて振り返ってもらった。【取材・文=白鳥純一】(全3回のうちの第3回)

「自分がプロの舞台や日本代表でプレーする未来を、遥か彼方の遠い世界だと思わないでほしい。高い目標をイメージするだけでも、そこに近づける可能性は間違いなく高まる。その大切さを伝えるようにしています」

 桐蔭学園高校を卒業した森岡氏は、Jリーグ開幕2年目の1994年に鹿島アントラーズに入団。この年は、怪我によりわずか1試合の出場にとどまったものの、1995年途中に清水エスパルスへのレンタル移籍(その後完全移籍)をきっかけにチャンスを掴むと、日本を代表するDFへと成長を遂げた。

「僕が高校3年生の時、日本代表がW杯出場を逃してしまった『ドーハの悲劇』があり、W杯の日本誘致に向けた活動も盛り上がりを見せていましたけど、個人的には『本大会にすら一度も出られていない日本で、果たして本当にW杯を開催できるんだろうか?』と、どこか半信半疑だった記憶がありますね」

日本代表は縁遠い存在だった

 だが、森岡氏が高校卒業を目前に控えた1994年1月、横浜国際総合競技場(後の日産スタジアム)の建築が着工された頃から、その機運は次第に高まっていく。

「地元の横浜に凄く大きなスタジアムの建設が始まると、友人が『もしW杯を誘致できたら、あそこで試合をやるらしいぞ!』と教えてくれて。W杯の日本開催が現実のものになりそうな状況に不思議さを感じつつも、自ずと気持ちは昂りました」

 同年にJリーガーとしてのキャリアを歩み始めた森岡氏は、プロ入り2年目の1995年にはU-20日本代表に選出。チームのベスト8入りを支えた。

 さらに翌1996年には、W杯の日本開催が正式に決定。7月のアトランタ五輪では、後の日韓大会優勝メンバーが揃うブラジル代表に1対0で勝利を収めるなど、日本サッカーは自国で開かれるW杯を追い風にして、世界との格差を急速に縮めていった。

 しかし、清水エスパルスのレギュラーポジションを掴んだ森岡氏にとって、日本代表はまだまだ縁遠い存在だったそう。

「選手としての自分の力量にはそれなりに自信がありましたけど、ユース世代で主力を担った選手がステップアップし、やがてW杯の大舞台に立つと思っていたので、ユース代表で出場機会が得られなかった僕には、チャンスがないと思っていました」

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