「フラット3の申し子」森岡隆三氏が明かす「日韓W杯」までの秘話…「3人のDFが阿吽の呼吸で動けるようになるまでトレーニングを積み重ねたんです」

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とにかくもっとサッカーが上手になりたい

 1999年のワールドユース選手権ではスペインに次ぐ準優勝。森岡氏がオーバーエイジ枠で出場したシドニー五輪ではベスト8に進出するなど、日本のサッカーは着実に進化を続けていたが、それでも世界トップレベルとの実力差を思い知らされる場面も少なくなかった。そんな中、「自分たちの立ち位置を把握しつつも、さらに上を目指せる確かな手応えを感じ、僕らにとって苦い薬のような時間だった」と振り返るコパアメリカ(1999年6~7月・パラグアイ)での敗戦(1分2敗のグループ4位)は、今も森岡氏の記憶に深く刻まれているという。

「当時はまだスマートフォンがなかった時代だったので、試合前にはテルくん(伊東輝悦)と、ファッション誌や時計の雑誌を見ながら『日本代表に選ばれたから、そろそろ一個くらい時計が欲しいな』などと悠長に話していたんですよ。でも、パラグアイ代表に0対4で惨敗すると、『時計とかどうでもいいから、とにかくもっと上手くなりたい!』と二人の目の色が変わって。状態の悪い芝生でも動ける南米の選手たちに刺激され、帰国後に斉藤俊秀くん(現、日本代表コーチ)と砂浜でトレーニングに励んだりして、『少しでもその差を埋められるように』と意識が変わるきっかけになりました」

日本を担うリーダーを育てたい

 2002年に行われた日韓W杯のメンバーに選出され、チームの主将も任された森岡氏だが、春先に患った肉離れが尾を引き、本戦では負傷交代したベルギー戦での71分間の出場にとどまり、初の決勝トーナメント進出に沸くチームの中で、一人取り残されたかのような虚無感を味わった。

「僕にとって日韓W杯の話題は、ずっとトラウマ的なものでした。大会後も故障で思うようなプレーができなかったり、好調だった時のイメージが残っていて、そのギャップに苦しんだりもしました。あとは怪我をせずにW杯を終えて、『もし、ヨーロッパのクラブに行けていたら、その後の人生はどうなっていただろう?』と叶わなかった夢に耽ってみたりもして。過去の自分を追い求める日々から抜け出すまでに、5年くらいの時間がかかったような気がします」

 2008年に京都サンガで現役を退いた森岡氏は、京都サンガU-18やガイナーレ鳥取の監督を経て、現在はクリアソン新宿のクラブリレーションズオフィサーや、アカデミーで後進の育成に携わっている。

日本を背負うリーダーの育成を目指す

「アカデミーで関わった子供たちが少しずつ成長していく姿を見るのが本当に嬉しくて。クラブを巣立った選手たちが、社会のさまざまな場所で躍動することが今から楽しみですし、そういった活動の延長線上にクラブの昇格や優勝といった目標もあるのかもしれません」

 そして森岡氏は、指導者としての思いをこう続けた。

「トップチームで活躍できるような選手の育成ももちろん大切ですが、残念ながら全員がプロの選手として活躍できるわけではありません。子供達が将来自立し、豊かな人生が歩めるようにすること。そしてさまざまなジャンルで日本の未来を引っ張っていくようなリーダーを育成していくことも目指して、日々子どもたちと向き合っています」

第1回【「僕のW杯は終わってしまった……」トルシエジャパンの主将「森岡隆三氏」が明かす“代表メンバー発表”直前に味わった絶望】では、サッカー元日本代表の森岡隆三氏に、自身が主将を務めた2002年の日韓W杯について、当時の心境などを詳しく伺いました。

ライター・白鳥純一

デイリー新潮編集部

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