【中傷動画問題】名刺交換が「面識」の前提条件という高市首相の定義は正しいのか

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 高い支持率を背景に、憲法の前に辞書を書き換えるということだろうか。8日、いわゆる「中傷動画」問題に関連して、第一秘書と動画作成者との「面識」について高市早苗首相は記者団に次のように語った。

「私がこれまで答弁してきたことは揺るぎません。私自身も私の事務所も、国会議員で去年の総裁選挙を応援してくださった議員の皆様も含め、他の候補者を誹謗したり中傷したりということは私の流儀でもないし、決してやっておりません。

 衆議院選挙についても、過去30年以上衆議院議員をやっておりますが、これまでの選挙で対立候補の批判や中傷をしたりということは、私は一切やってない。

 私の事務所もそういうことをすることはございませんし、ましてやそれを第三者に依頼をすることは決してない。

 面識があるかについては、面識はないです。実際にお会いして名刺交換をし、相手の所属や氏名をちゃんと承知しているってことはないということでございます」

 注目されているのは最後の「面識」に関する部分である。「面識はない」に続けてこう述べている。

「実際にお会いして名刺交換をし、相手の所属や氏名をちゃんと承知しているってことはない」

 文脈から見て、これが高市首相の「面識」に関する見解だと言える。つまり「実際にお会いして名刺交換し、相手の所属や氏名をちゃんと承知」することイコール「面識」ということだ。これを受けて、高市首相の支持者は大いに納得したようだ。たとえば首相のブレーンとして知られる高橋洋一嘉悦大学教授はX上でこう述べている。

「面識=実際にお会いして名刺交換をし相手の所属や氏名をちゃんと承知していることとキチンと定義している。

面識がなく依頼も指示もしていないというのが高一(注・高市の間違いと思われる)事務所側の主張」(6月8日)

 高市首相の定義を前提とすれば、いま問題になっている動画作成者との「面識」の有無及びそれに関する首相の国会答弁の正否は何の問題もないという見解だ。たとえ動画作成者がリモート会議などで会話したと言っても、名刺交換もしていないし、秘書側が「ちゃんと承知」していなければ「面識」は発生しない。首相の従来の発言とは何ら矛盾しない、ということになる。

リモート時代に「対面」は必要か

 もっとも、これに納得しない人も多い。辞書で見る限り「面識」の定義には「名刺交換」は含まれていない。たしかに昔ならば「対面」の持つ意味は大きかっただろうが、リモート会議や打ち合わせが日常の現在、「リアルで顔を合わせていないから面識はない」というのはかなり苦しい。時代感覚がずれていると言われても仕方がない。

 そもそも首相や秘書は数多くの人とパーティその他で顔を合わせてきただろうが、全員と名刺交換をして、所属や氏名を正確に把握しているのだろうか。していない場合、顔見知りでも「面識」のない人扱いというのはいかにも冷たい。

 首相の定義では、ご近所の人や行きつけの居酒屋で顔を合わせる人も「面識」がない人ということになる。日本の心を大切にするはずの高市首相にしては随分冷たい物言いである。

 情報がフェイクかファクトかを判別するにあたって、「定義」が極めて重要だ、と指摘するのはジャーナリストの烏賀陽弘道氏だ。烏賀陽氏は著書『フェイクニュースの見分け方』の中で、発信者が正確な情報を発信している人物か否かを見分けるポイントをいくつか示している。そのうちの一つが「正確な定義」に関するものだ。フェイク情報を見抜くために知っておくべきポイントとは――(以下、『フェイクニュースの見分け方』より抜粋・再構成しました)

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定義に正確な言葉を使っているか

 当たり前だが、どんな言葉にも「正確な定義」がある。特に社会的な論点にかかわる言葉はまず「何が正確な定義なのか」を確かめないといけない。これは「事実の正確性を守る」という点で重要であることは言うまでもない。それに加えて、論点を社会に提示するときに、発信者と受信者の間で言葉の定義にズレがあると、議論が噛み合わず、混乱するばかりである。ネット上の論争を見ていると、論争参加者が「同じ言葉」について論じながら、それぞれ違う定義で主張を繰り返して、議論がすれ違っているのをよく見かける。議論を始める前に、議題となる言葉について論者の定義が一致しているかどうか、確認する作業がまず必要なのだ。

「言葉を正確な定義に従って使っているかどうか」は発信者の質を測る重要な指標になる。発信者が「事実の正確さ」にどれくらいの注意を払っているかがわかる。
なにも「100%ノーミスでなくてはならない」とは言わない。人間だからミスはありうる。そうではなく、原資料に当たる、より直接情報に近い人に確認するなど「より正確な事実に近づく」ための努力をどれくらいしているか、がわかるのだ。

ディストピアの話法

 発言者がなにげなく使っている言葉の定義を疑ってみると、議論の検証に意外な突破口が開けることがある。

 福島第一原発事故のとき、東京電力と政府が「計画停電」という言葉をいきなり使い始めたことに、私は強い違和感を持った。当時は福島第一原発事故にはじまり、火力発電所もあちこち止まり、関東圏は大混乱だった。またどの区域をどういう根拠で停電させるのかの合理的な根拠も示されていなかった。そんな混乱の中で停電するのに「計画」という名前はまったく現実にそぐわない。あたかも計画通りに秩序だって停電が行われるかのように「印象」が操作されている。

 こういうふうに、意図的に社会の認識を操作することを英語で“Perception Shaping”(認識形成)という。米国では広告代理店やPR(パブリック・リレーション)会社の重要な仕事はこうした「認識形成」あるいは「印象操作」である。企業や政府などクライアントの意向に従って、好ましい世論をつくる。最近はこうした業務に慣れたスタッフがホワイトハウスや国防総省にもいるのが当たり前になっている。戦闘の巻き添えになって非戦闘員が死傷することを“collateral damage”(付随的被害)、味方を誤射・誤爆することを“friendly fire”(友軍射撃)と言い換えたりする。ジョージ・オーウェルはディストピア小説『一九八四年』の中でこうした言い換えによる印象操作を「ニュースピーク」(新しい話法)と呼んだ。プロパガンダが発展した形態である。

 3・11以前、こうした区域を決めて順番に停電することを電力会社は「輪番停電」と呼んでいた。「計画停電」への言い換えは、印象操作であることは明白だった。実は、3・11当時でも、新聞は2011年3月14日付紙面までは「輪番停電」という言葉を使っていた。ところが15日付から「なぜ言い換えるのか」という説明なしに一斉に「計画停電」に言葉を換えてしまう。本来、ここで「なぜ言葉を言い換えるのか」「これは印象操作ではないのか」「誰がそんなことを言い出したのか」と問うべきだった。ところが、こうした問題提起や議論はほとんどなされていない。

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 むろん、永田町における「定義」は一般社会とは異なるという主張は可能だろう。「責任」「約束」「反省」などについても通常と異なる定義が横行してきた世界である。それを熱烈な支持者以外がどう受け止めるかは別だろうが。

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