【石破茂元首相、1年間の回顧録】首相に就任した石破氏はなぜ高市早苗氏を幹事長に据えなかったのか
2024年、102代内閣総理大臣に就任した石破茂氏。過去4度にわたり自民党総裁選に挑みながら敗北した石破茂氏は、4回目の総裁選終わりには周囲から「石破は終わった」とまで言われていた。石破氏自身もこれで総裁選に出ることはないと考えていたというが、なぜ総裁選に5回目の出馬したのか、そして高市早苗氏を幹事長に据えなかった経緯とは。石破氏が当時を振り返った。
※新潮社の情報・教養サブスク、新潮QUEの【石破茂、1年間の回顧録――5回目の総裁選、奇策とされた総選挙、そして「熟議の国会」に至るまで】を再編集しました。
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5回目の総裁選で、内閣総理大臣に
――約1年間の総理のお仕事、お疲れ様でした。
疲れました。
――このインタビューの主眼は、前総理に1年程余りを振り返っていただくというものです。ただし、漫然と振り返るのではなく、世論やメディアとの向き合い方をメインにしていきたいと考えています。色々な批判に苦労、苦慮した1年間にも見えたので、このへんのことを伺いたいと考えています。
もちろんまだ時間が経っていないこともあり、言えないことも多いかと思います。そのあたりは「言えない」とハッキリおっしゃってください。
はい。
――最初は総理就任直前、つまり2024年自民党総裁選の直前から直後ぐらいまでについてです。あの時、これが「最後の戦い」になるといった表現をなさっていました。気合いは伝わってきたものの、一方で当初の下馬評では勝ち目はないようにも見られていたと思います。
それでもなお出なければいけない、最後の戦いに挑まねばならない、と考えたのはなぜか。何のためか。またどの段階で勝てると思ったのか。そのへんの心の動きを教えてください。
はい。私は総裁選にはその前、4回出馬しているんですね。
最初は2008年。福田康夫さんの次の総裁を決める総裁選でした。
この時、私は51歳で自分自身、総裁選に出るなんて夢にも思っていませんでした。もともと当時所属していた経世会(平成研究会)は大体、麻生太郎さん支持で固まりつつあった。その時に会の若手を中心とした一部の人たち――橋本岳さんとか小渕優子さんとか竹下亘さん――が、異を唱えたわけです。
「歴史と伝統ある平成研が候補者を出さないなどということがあっていいのか」みたいな話が持ち上がり、その後いろんな紆余曲折があったんだけど、私が「推薦人が20人集まったら出ようか」って言っちゃったのが間違いの始まりというか。
実際にそれで集まったので、出ないわけにもいかないとなって、出馬したわけです。結果、鳥取県と推薦人以外の票はないという、自民党総裁選が始まって以来の低得票で惨敗となりました。私が25票で、当選した麻生さんが351票。
この時は、そんなもんだろうなと思いましたね。これが1回目。
2回目が、2012年の安倍晋三さんと争った時です。他には石原伸晃さん、町村信孝さん、林芳正さんが出ていました。
この時、一回めの地方票の多くは私にご支持いただきました(注・石破氏が199、安倍氏が141)。
だけど国会議員による決選投票で(注・石破氏が89、安倍氏が108)、安倍さんが総裁となり、私は幹事長を拝命しました。
その次、3回目は安倍政権時代の2018年で、安倍さんと私の一騎打ち。 この時は、前回総裁選が無投票で安倍さんになったこともあって、他の選択肢を示す必要があるという意味から出馬しました。
その前に安倍さんには、農林水産大臣をやってくれと言われたけれどもお断りして出馬した。あの時に農林水産大臣をやっていれば、また違う人生があったような気もするが、当時、私はアベノミクスといわれた経済政策が、当初言っていた三本目の矢になかなか移行しないことに懐疑的でしたからね。
そうであれば、別の選択肢を示さないということはあり得ないと考えたのです。さらに安倍さんと異なってきた憲法観について、問うてみたいという考えもありました。
結果は負けたけれども、あの状況で大善戦だったと言ってくれる人もいましたね(注・安倍氏553、石破氏254)。
次の4回目は安倍さんが辞めた後の2020年。菅義偉さん、岸田文雄さんと3人で争った時ですね。
安倍さんの路線の後継者として菅さんが立候補されたのに対して、異なる経済政策や憲法観を訴えることはできたと思います。が、結果は3位で惨敗でした(注・菅氏377、岸田氏89、石破氏68)。
――この時「石破は終わった」などと言われましたね。
そう。岸田さんよりも票を得られなかったこともあって、「終わった」と言われました。自分でも、これで総裁選に出ることはないと思いました。水月会(いわゆる石破派)も解散した。
だからその次の総裁選(2021年)には出ないで、河野太郎さんを担いだ。「小石河連合」などと呼ばれた時ですね。それも勝てなかったので、もう自分の役割は終わったと本当に思いましたね。
――それは総理総裁を目指すといった局面での自分の役割という意味ですよね。政治家としての役割、ではなくて。
はい。要は自分が総裁選に出ることは金輪際ないと思っていたわけです。だけどその後も、世論調査だと相変わらず、次の総理、総裁にふさわしい人物として1番とか2番とかに自分の名前を挙げていただいていて、これは意外なことでした。もう私自身はさっき言った通り、割り切っていたつもりでした。
それでも各種の調査を見ると、こうした声に応えないのはよくないよね、という思いはあった。こんなに期待してくださっているのは無視できない。
もう一つは自分の選挙区で、「石破さんはもういいわ」というふうにはならなかった。鳥取県から初めての総理をどうしても出したいっていう声は依然、強かった。特に鳥取一区ですね。そこの人たちの思いというのは決して衰えることがなかった。
こうした国民、地元の声に応えないのは政治家としては背信にも等しいのではないか、という思いから、2024年、出馬したわけです。自分でも考えてもいなかった5回目でしたから、「最後の戦い」と言って臨んだわけです。
ですから、確たる勝算があったわけではない。最初は小泉進次郎さん、あるいは高市早苗さんが本命視されていましたかね。
――他にも林さんや茂木敏充さんなど全部で9出ましたが、本命はその2人と当初は伝えられていました。
でも、政策論争で負けるとは思わなかったんですね。ほかの候補者もそうだったのだと思いますが、決選投票には残らなければ、という感じでしたね。
――途中、小泉さんは失言というかミスが重なったことで失速していったと記憶しています。
そうですね。それで、1回目の投票では党員投票も含めて高市さんが1位(181票)で、私が2位(154票)でした。
そのあと、上位2人の決選になって、2人が演説することになったでしょう。あの機会は私にとっては大きかったと思います。高市さんはああいう決選投票で演説するのが初めてだったから、少し動揺が見られました。私は変な言い方だけど場慣れしていましたから、短い時間で言わなきゃいけないことをきちっと言えたのではないかと思います。
高市総理自身は実は今でもリベラルな思想を持っているのでは
――決選投票の開票結果を見た際に、党員票は高市さんが勝っていたにもかかわらず、国会議員票で逆転した、これは党員の民意に反する、というものでした。統治の正当性を問う、とでも言いましょうか。
この理屈で言えば、第二次安倍政権も成り立たなくなるわけですが、実際にその種の主張は目にしました。党内にも似たようなことを言う方はいたと思います。
さらに高市さんを幹事長に据えなかったことで、批判の声は強まりました。安倍さんは石破さんを幹事長にしたのだから、今回もそうすべきだ、といった主張ですね。
これらについてはどう捉えていたんですか。
高市さんに総務会長を打診して断られたのは事実です。
――もともと次点は幹事長に、といった決まりはないわけですしね。総務会長というのは大した役職ではないんですか。
いや、序列から言えば、総裁、幹事長、総務会長、政調会長となるわけですし、かなり重要な役職だと思います。
――あの時、党内でゴタゴタしているのを見て、なぜこんなことを見えるようにやっているんだろう、と不思議に思いました。ウソでも党が一致団結しているように見せたら、のちの選挙の結果も変ったのでは、とも。
そういうふうには思わなかったですか。
その頃、高市さんが絶対に自分が総理になるのだといった強い個人の意思を持って動いていたのか、その後ろに別の意図があったのか、そのあたりは今でもわからないな。
――高市さんとの関係性はどういうものだったのでしょうか。
親しく付き合ったことは一度もないんだけど、同じ時期に新進党にいたことがありましたね。若い頃は「リベラルズ」という集団にもいたと記憶していますから、当時は本当にリベラルな思想だったんじゃないかと思うんですよ。
だから高市総理自身は実は今でもそういうリベラルな思想をある程度持っている方じゃないかというふうに思っているんです。ただ、権力を掌握するには、いわゆる右の人たちが持つ願望に乗るのが良いと考えたのか。そこはよくわからない。
〈新潮社の新潮QUE【石破茂、1年間の回顧録――5回目の総裁選、奇策とされた総選挙、そして「熟議の国会」に至るまで】では、石破氏に2024年総裁選直前から、同年の総選挙直後までを振り返ってもらっている〉


