「これで日本全体が変わると」…終戦を機に女優を目指した「華族の令嬢」 戦後日本が「久我美子」に託したものとは【昭和女優ものがたり】
「わが青春のアイドル」第1位
これらの作品で久我に魅入られた人はとても多い。1990年に出版された『女優ベスト150 わが青春のアイドル』(文春文庫)では、各界著名人が自身の青春アイドルをアンケートで答えている。結果は高峰秀子、吉永小百合、原節子をおさえて久我が1位。しかも、得票数で2位を大きく引き離す断トツのトップだ。
久我に票を投じた人は戦後間もない頃に青春時代を送った60代が多い。現在の60代の人が、80年代アイドル映画の薬師丸ひろ子や原田知世らに熱狂したことと重なる。久我はまさしく戦後のスーパーアイドルだったのだ。
当時の若者に久我がどう映ったか、英文学者・演劇評論家の小田島雄志がこの本で語っている言葉が象徴的だ。「〈恋〉ということばは、青春時代のぼくにとっては、久我美子によってイメージされるものだった」と。
1951年、黒澤明監督の「白痴」に出演する。ドストエフスキーの小説を翻案したもので、久我は強い自我と意志を持った女性・アグラーヤである大野綾子を演じる。久我が最も好きな役のひとつだという。
この作品で共演した原節子に久我を紹介したのは写真家の秋山庄太郎だ。秋山は将来有望な新人女優をよく原邸に連れて行ったという。原は物怖じしない久我をたちまち気に入ったそうだ(秋山庄太郎『麗しの銀幕スタア』小学館)。
「にんじんくらぶ」設立と結婚
1954年、久我に大きな転機が訪れる。木下惠介監督「女の園」で共演した岸惠子と女だけのプロダクションを作りたいと意気投合。有馬稲子を誘い3人で「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立したのだ。俳優のための映画企画と他社出演の実現が目的だ。
当時は「5社協定」の時代。戦後、日活が制作を再開したために監督や俳優の引き抜き・他社出演を禁止する協定を映画5社が結んでいた。大映の看板スタア・山本富士子がこのために映画界を去ったのは有名な話である。
そんな中、トップ女優3人の独立プロダクション設立は大事件となる。しかし、久我は黒澤、木下以外にも成瀬巳喜男、溝口健二、市川崑などの名監督作品に出演していた売れっ子だった。岸、有馬も同様で映画会社は人気女優たちの行動を黙認するしかなかったのだろう。
注目だけではなく、にんじんくらぶは、映画史に残る「人間の條件」3部(1959~1961年)などを制作し、日本映画界に確かな足跡を残すことになる。
1957年、久我は代表作のひとつと言われる「挽歌」に出演する。霧の北海道を舞台に、アマチュア劇団員が心の空虚から、妻ある中年男と恋におちるという話だ。久我はエキセントリックなヒロインを好演し、アイドル的な立場から演技派として認められるようになる。
久我美子という名の戦後
1961年には俳優の平田昭彦と結婚する。平田はダンディさの中に知性が窺える役者だった。中でも「ゴジラ」(1954年)で演じた芹沢博士役が印象深い。おしどり夫婦として知られた2人だったが、1984年、平田は病気のために56歳で亡くなる。
久我は「3時のあなた」(フジテレビ)の司会をするなど、映画界と距離を置いていたが、1989年「ゴジラVSビオランテ」に官房長官役で出演し平田の遺志を継いだ。
最後の映画出演は「川の流れのように」(2000年)だった。2024年6月9日、93歳で逝去する。
戦後の瓦礫の中で明るく生きようとする女学生、戦火の中愛する人を想う画家の卵。そんな姿に敗戦にうちひしがれていた人たちは、自身の希望を託したに違いない。彼らは「久我美子という名の戦後」を生きたのだ。






