ノコギリ、包丁、電動肉挽き機…“仕事は順調だった不動産鑑定士”が犯罪史に残る“猟奇殺人”に手を染めた理由 昭和58年「練馬一家5人殺害事件」の裏事情
仕事は順調だった
服役を終えたZは上京。都内の不動産鑑定事務所に勤め、難関国家資格である不動産鑑定士になることを決意する。30代から独学で勉強を重ね、昭和50年に合格、40歳で資格取得を果たした。その後は順調で、複数の企業と顧問契約を結び、事件当時は杉並区にマイホームを建て、妻と妻の母、税理士を目指して勉強中の長女、大学に入学したばかりの長男と5人暮らし。新宿区四谷のマンションに鑑定事務所を構え、事件の10日前には所属する社団法人日本不動産鑑定協会から「協会の調査事業に尽力した」として表彰される仕事ぶりだった。
自宅のローンはもうすぐ終わる。家族をもっと楽にさせたい……そんな思いにかられたZが意識したのは、従来の鑑定業務だけでなく、不動産の取引だった。被害者Aさんの自宅だった木造2階建て住宅とその土地624平方メートルは、Aさんの義父の所有で、これらを担保に金融機関から借金を重ねていたが、競売にかけられた。それをZが昭和58年2月、1億280万円で取得し、6月末を期限に、別の不動産業者に転売する契約を結んだ。
当時の不動産業界では、居住者がいる競売物件は退去を巡ってトラブルになるなどの理由で、手を付けるのはタブーとされていた。しかし、Zは郷里・秋田の山林や土地、そして自宅など全財産を担保に入れて金融機関から金を借りていた。
〈新宿の不動産業者に1億2950万円で売ることが決まった。内金として1500万円を手に入れたが、引き渡しの期限は6月30日。契約不履行の場合は、3000万円の違約金を払わなければならない。借金の金利は毎月100万円近い。それでも計画通りにいけば1000万円以上のサヤを稼げるはずだった〉(「週刊新潮」2004年9月2日号)
だが、Aさんは立ち退きに応じることはなかった。Zが頻繁に自宅を訪ね、明け渡しを求めても「弁護士に相談してほしい」「準備が間に合わない」などと繰り返すばかり。Zは3月に入り、東京地裁に立ち退き請求訴訟を起こしたが、「近いうちに立ち退くから、訴訟を取り下げて欲しい」とAさんに言われ、取り下げた。しかし、事態は進展しない。Zの自供によると、
〈「やっぱり立ち退けない。話があるなら弁護士に相談してくれ」と約束を破った。だまされたと思ったが、あとの祭りだった。それから三日に一度はたずねていって立ち退きを頼んだが、いつも玄関払いで、夜行ったときなどは戸さえ開けてくれなかったという〉(毎日新聞 1983年6月29日夕刊)
一家が蒸発したように……
Zは追い詰められた。引き渡し期限の6月30日がもうすぐだ。きちんと手順を踏んで交渉したのに、Aさんは応じないばかりか、約束を守らなかった……。
秋田で起こした事件以降、ながく内に秘めていたZの“本性”に、抑えようのない“怒り”が加わった。不動産鑑定士は法律の専門家でもある。冷静に、落ち着いて、法的にどのような対処が可能なのか、それを考える“余裕”もZにはなかった。
「家族全員を殺してどこかに埋め、一家が蒸発したようにみせてやればいい」
6月に入ると、電動肉挽き機、まさかり、のこぎり、包丁、金づち、ジャージ上下、シューズにゴム手袋を台東区内の工具店などで調達。また、それらを隠し、出撃拠点となるマンションを杉並区内に借りた。さらに、遺体を処理・運搬するには車が必要だが、しばらくペーパードライバーだったため、教習所に通って練習するだけでなく、車も購入した。これら、一連の“準備”に約300万円をつぎ込んだ。
そして、Aさん宅の「下見」も念入りに行った。平日ならば午後3時ごろ、子供たちが学校から帰ってくる。妻のB子さんはそれから買い物にでかけることが多い。Aさんが帰宅するのは夜の8時から9時くらい……惨劇が近づきつつあった。
【第3回は「内臓を“肉挽き機”でミンチ状にしてごみ袋に入れ…一家5人を惨殺した不動産鑑定士 「骨まで粉々にしてやりたい」ほどの憎悪の正体とは」】
[2/2ページ]

