今こそ『国富論』から“時代の振り子”を学ぶべき理由と「ワイズ・スペンディング」の落とし穴
世間で最も誤ったイメージをもたれている偉人の一人が、「経済学の父」ことアダム・スミスではなかろうか。「神の見えざる手」なる言葉に引っ張られた通俗的な理解には、実は誤解が多い。こうした本質を理解してこそ、現代社会を生き抜く上での教養という“武器”になる――。『国富論』のエッセンスと“経済の専門家としての読み解き方”について、経済アナリストの森永康平氏にきいた。
アダム・スミスを読む意味
アダム・スミスといえば、社会科の教科書でも紹介されている通り『国富論』を著した「経済学の父」というイメージが強すぎて、実は道徳を専門とする哲学者であったことはあまり知られていないと思います。
彼はまず自らの思想を『道徳感情論』という本にまとめ、そのなかの経済や財政に関する部分を『国富論』でより詳細に書きました。この2冊は、国際的にグローバリズムからブロック経済への転換が進み、格差も広がり続けるこの現代社会を生きるビジネスパーソンにとって示唆に富んだ名著であることは間違いないでしょう。
世の中の大きな潮流は、直線ではなく振り子のように揺れ戻ります。実際、2000年代半ばまでグローバル化や市場主義がもてはやされていた一方で、リーマンショック、コロナ、ウクライナ戦争などを経て、サプライチェーンの分断や経済制裁、関税強化といった形で、いま世界は保護主義寄りへ振れ始めている。
こうした振り子を学べるのが古典であり、その代表が『国富論』だといえるのではないでしょうか。ビジネスや生活をより豊かなものにしていくためにも、大いに学ぶ価値のあるものではないかと私は思っています。
「神の見えざる手」の誤解
まず、アダム・スミスが生きた時代について押さえておきましょう。彼は1723年にスコットランドに生まれ、18世紀半ば頃から産業革命で経済が急拡大していくなかで哲学者となり、1776年、53歳のときに発表したのが『国富論』です。
本書では、まさにこの産業革命が社会や生活をどう変えたか、なぜ人々は豊かな生活を送れるようになったか、ということをテーマにしています。要因としてもっとも大きいのは言うまでもなく「技術革新」で、それまで人力で行われていた生産行為の多くが機械化され、生産性が大きく向上しました。
それに加えて大きいのが、「分業」と「交換」です。つまりひとつの事業に関連する業務をすべてひとりが担うのではなく、人や設備などのリソースを適切に配分する。また各フェーズでの成果物を現物交換や貨幣による売買によって適切に配分する。こうした要因が本書の中では度々強調されています。
たとえば服を作って売るには、まず原材料を生産するために羊を育成し、その羊毛を刈り、品質ごとに選別し、糸にし、糸を染め、その糸で布を作り、布で服を作り、その服を店頭や行商で売る、といった具合に多数の工程を経る必要があります。これらの工程をそれぞれの専業者が分業して手掛けることで効率が上がり、ひとつの業務に集中するなかでスキルも上がり、またその成果物の交換が行われることで、さらなる生産性の向上につながったのです。
こうした分業などによる恩恵について、アダム・スミスは「見えざる手」という言葉を使って説明しています。これは現代における経済学の講義や書物などでアダム・スミスに言及する際、必ずと言って良いほど用いられる「神の見えざる手」というフレーズの元となった言葉です。
世間一般では「モノやサービスの価格は需要と供給のバランスで自然と適切に決まるのだから、市場の自由競争に任せていれば経済の効率化と成長につながるのだ」といった新自由主義的な意味合いで理解されがちなのですが、実はこの認識は間違っています。アダム・スミスの言う「見えざる手」とは、人々が自身の私的利益を追求する行動が意図せずして社会全体の利益や最適な資源配分につながるという自動調整メカニズムのことであり、産業革命における技術革新や分業などの恩恵をピタリと言い当てたフレーズなのです。
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