「重光葵」が降伏文書の調印式前によんだ和歌、「M・モンロー」宿泊に大騒ぎ…「帝国ホテル」従業員が語る“あの日あの時の日本”

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ミズーリ号に向かう重光葵を見送って

 やがて戦局が進むにつれて酒も材料も欠乏するようになり、帝国ホテルといえども、贅沢は許されなくなった。

「鯨のハンバーグから食用ガエルやドジョウにいたるまで、本当にありとあらゆるものを料理しましたよ」

 と現料理長の村上信夫がいえば、パン工場のシェフをつとめる小林秀雄(66)も、

「戦時中は、ドイツ、イタリーの同盟国側の軍関係の宴会などがありましたが、そのころの一番のご馳走はオムレツでした。上海から一斗缶で送られてくる乾燥卵という卵の黄身の粉末で、10人前のオムレツが作れるんです。それから、ニョッキというイタリー料理に似せたものとして、ウドン粉の固まりを西洋風にアレンジして出したりしました」

 という。コーヒーと称して出されるものも、実際は、麦茶の濃いものにすぎなかった。そして、やがて敗戦。

「あのころのことで特に印象深いのは、重光葵外相でした」

 というのは、相変わらずVIPの客室係を続けていた竹谷年子である。

「ミズーリ号調印(編集部注:1945年9月2日の降伏文書調印)でホテルを出るという日、義足でいらっしゃいましたから、私たちでお洋服をお着せしてロビーまでお連れしたのですが、お出かけの前に3枚の色紙に和歌をしたためられ、そのうちの1枚を私に下さったのです」

「永らえて 甲斐ある命 今日の日を 御国の盾と 我ならましを」という和歌だった。

不評を買った進駐軍の支配人

 占領中の日本を牛耳ったのは、進駐軍のダグラス・マッカーサー元帥だったが、接収中の帝国ホテルの天皇は、進駐軍から支配人として送り込まれたジョゼフ・モーリスという歩兵中尉だった。

 モーリスは当時まだ22、3歳の若さだったが、「非常に剛直な、融通のきかない男で、いつも威張りちらしていましたよ」というのは、終戦の年に帝国ホテルに入社した早川喜彦アシスタントマネージャー(56)である。

「でっかい体をしているくせに神経質で、病的に几帳面な奴でした。ユニホームのボタンが磨いてあるか、爪は伸びていないかと、しょっちゅう並ばされて点検されましたが、それも面白半分にやるのです」

 そしてふた言目には「I don’t want to see you flesh, no more(もう君の姿を見たくない、たくさんだ)」と叫ぶ。つまり、クビだというわけである。

「モーリスの時代は、1日当たり1人はクビになってましたね。そのほか、表に行って穴を掘ったり、料理場の大掃除をする重労働とか、出勤停止とか、いろんな罰則がありまして、私もそういうのは4、5回やられました」

 と宴会係OBの小宮がいえば、早川も、「ある少将のタバコが2カートンなくなったというので、2日間もホテルに留めおかれたことがあった」という。

 まあ、それだけ従業員によるツマミ食いが横行していたわけで、「進駐軍の食料をかっぱらって食べるなんてのは当たり前だった」と小宮はいう。

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