「調理場にいたら関東大震災」「ベーブ・ルース夫人はお綺麗だった」…歴史の舞台「帝国ホテル」従業員たちが語る“あの日あの時の日本”
日本の浮き沈みを見たライト館
1923(大正12)年に完成し、1967(昭和42)年に取り壊されるまでの44年間、帝都に威容を誇っていたこのライト館こそが、帝国ホテルの荘重厳粛なイメージを広く定着させるのにあずかった。
しかし、このライト館時代はまた、受難の時代でもあった。戦時中は外務、大東亜両省に借り上げられ、戦争が終わるとすぐに進駐軍に接収されて、GHQの高級将官の宿舎に充てられた。それが解除されて株式会社帝国ホテルの手にやっと経営権が戻ってきたのは1952(昭和27)年である。
その間に経営陣は、初代の渋沢栄一会長から大倉喜八郎、大倉喜七郎と、戦前は大倉財閥の二代が社長を継ぎ、戦後の財閥解体で大倉喜七郎が公職追放されると、そのあとを襲ったのが犬丸徹三だった。
石川県の中農の家庭に生まれた犬丸は、東京高商、現一橋大学を出たが就職に恵まれず、満州、上海から欧米に渡ってホテル修業をして、1919(大正8)年に帝国ホテルに迎えられ、終戦当時は総支配人の地位にあった。
そういう意味では、帝国ホテルが初めて迎えた叩き上げの社長だったが、社長になってからの犬丸は、戦後の国際化時代に即応して第一新館、第二新館と次々に施設を拡大した。ついには1970(昭和45)年の大阪万博に間に合わせるべく、世論の反発に抗して由緒あるライト館を取り壊し、新本館を完成させたのだった。
ライト館落成、祝宴の日に関東大震災
今でもその遺影を懐かしむ声が多いライト館については、いろいろ因縁めいた話が残っている。予算超過と工期の遅れで一身に非難を浴びたライトは1921(大正10)年に帰米してしまったが、建物は何とか2年後に完成に漕ぎつけ、落成の披露宴を催すことになった。
「朝野の名士およそ五百名を昼食に招待して、盛大な祝宴を張り、続いて演芸場で余興を公開するという順序とし、私はこの日、早朝から、その準備に忙殺されていた」
と犬丸徹三は著書の『ホテルと共に七十年』(展望社)で書いている。当日は犬丸が副支配人から支配人へ昇格した日でもあったから、ことのほか晴れがましい気分でいたのである。
「正午少し前、準備まったく完了して、いまは来賓の到着を待つばかりとなった。私は紋付きの羽織袴に白足袋という礼装に威儀を正した後、念のため、それぞれの係の責任者を支配人室に集めて、各部門とも万遺漏のないことを確かめ、なお二、三の指示をおこなった。これが終ると、各員は支配人室を去って、それぞれ館内所定の部署に就き、室内には私のほか庶務係二人のみが残った。突如、かの大地震が襲来したのは、まさにその時である」
大正12年9月1日、あの関東大震災の日だったのだ。
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