「なんだよ、お前」憧れの黒澤明監督から強烈ダメ出し…「仲代達矢」が悔し涙を飲んだ「七人の侍」撮影、それでも縁が続いた理由

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名監督と出会った若き日の名優

 黒澤明監督の名作「七人の侍」が封切られたのは1954年4月26日のこと。2025年11月に死去した仲代達矢さんは、出演時間わずか2秒のエキストラだったにもかかわらず、撮影現場でNGを連発したという。

 仲代さんは1932年、東京都の生まれ。1952年に俳優座に入団し、同年の「幽霊」で初舞台を踏んだ。映画俳優としては「火の鳥」(1956年)で本格的にデビューし、「人間の條件」6部作(1959~1961年)では主役に抜擢された。

「七人の侍」から始まった黒澤監督との縁は30年以上に及ぶ。「用心棒」(1961年)や「椿三十郎」(1962年)、「天国と地獄」(1963年)と続き、「影武者」(1980年)と「乱」(1985年)では主役を演じた。「週刊新潮」のバックナンバーから、生前の仲代さんが同作と黒澤監督について赤裸々に語ったロングインタビューをお届けする。

(全2回の第1回:以下「週刊新潮」2014年5月1日号「NG連続から始まった『黒澤明監督』との縁」を再編集しました)

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映画少年が憧れの黒澤映画に

 60年という歳月を経ても、「七人の侍」の撮影現場での記憶は鮮明に甦ってきます。セリフもなく、エキストラに過ぎない役どころでしたけど、憧れの黒澤映画への初出演となった作品でしたから。

 もともと、僕は根っからの映画好き少年でした。最初に目にした黒澤監督の作品は監督デビュー作の「姿三四郎」(1943年公開)です。それ以来、黒澤監督の作品が上映されると、欠かさず映画館に駆けつけ、とりわけ、「酔いどれ天使」(1948年)や「野良犬」(1949年)など、三船敏郎さんが主演される作品の熱狂的なファンになりました。

 僕は中学1年生の時に、終戦を迎えています。一気に、アメリカ映画、フランス映画が日本に流れ込んできて、娯楽といえば映画しかないような時代でしたし、映画館通いを続ける日々を送っていました。

 高校を卒業し、大井競馬場で警備員のアルバイトをしていたある日、東京・日本橋の三越劇場で、「女房学校」という新劇の舞台を観る機会があった。僕は、その舞台に心を激しく揺さぶられ、俳優になることを決意し、52年、俳優座養成所に入ったのです。

 そして、僕が養成所の2年生の時、「七人の侍」の撮影が始まりました。黒澤映画の大ファンでしたから、出演するチャンスはないかと、淡い期待を抱いていた。図らずも、養成所の先生から、「七人の侍」のオーディションがあることを伝えられたのです。

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