「ボクが元男爵なんて誰も知らない」戦後すぐ“爵位返上第一号”となった男性 後の会社運営で貫いた“納得のポリシー”とは

  • ブックマーク

72歳で明かした“返上の理由”

 昭和22(1947)年5月3日の日本国憲法施行時、人生の大きな方向転換を迎えた人々がいた。第14条第2項で「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と明示された華族の人々である。これにて明治以来80年の華族史は幕を閉じ、913家(803家ともされる)が爵位を失った。

 が、この日に先立ち、終戦後いち早くその地位を返上した華族もあった。元男爵・元陸軍中佐の福原基彦氏である。宮内省(現在の宮内庁)から返上を認められたのは、返上願をしたためてから約1年後、昭和21(1946)年のこと。それから38年後の1984年、当時72歳の福原氏が明かした返上の理由と“中小企業社長としての生き方”とは――。

(以下「週刊新潮」1984年1月5日号掲載「爵位返上第一号となった福原基彦元男爵」を再編集しました。文中の肩書き、年齢等は掲載当時の42年前のものです)

 ***

爵位は祖父の功績で貰ったもの

 福原基彦氏は72歳。断熱工事会社の会長さんである。神奈川県にある自宅で、福原さんは「もう昔話ですが……」と語り始めた。

「そもそも、わが家の爵位の由来からいいますと、曽祖父が幕末の長州藩の京都留守居役を務めた人で、その次男・豊功(とよのり)が家督を継ぎ、維新後、上京して巡査になった。禁門の変(1864年)で責めを負って自刃した長州藩家老の福原越後(えちご)はウチの本家筋に当たり、藩祖・毛利元就の生母はわが家から出た人なんですが、そんな家格はそのころ関係なかったのですね。

 で、巡査から軍人となり、西南の役(西南戦争、1877年)などで功を立て、陸軍少将として日清戦争で戦病死した。それを親友だった寺内正毅さん(陸軍元帥)や児玉源太郎さん(陸軍大将)が気の毒がって、長男の基蔵に男爵を運動してくれた。明治30(1897)年のことですよ。

 爵位につくと、その当時の金で1万円の一時金を貰ったそうですが、今の1億円ではきかないこの金を、ボクの祖母、つまり豊功夫人が贅沢をしてやたらに浪費した。おまけに父の基蔵(陸軍大尉)が陸大受験に失敗。語学将校を狙って外語学校を受けたがこれもダメ。ついには革命前のロシアに私費留学して、財産をあらかた使ってしまった。

 大正7(1918)年、ボクが襲爵した時は、まあほとんど金はなかった。やれ観桜会だ観菊会だというたびに威儀を正して参内するのが本当のところ有り難迷惑だったし、ボクにしてみれば、爵位なんて祖父の功績で貰ったものという気持ちが強かったんですよ」

空襲で自宅と財産は丸焼け

 福原氏は学者か役人を夢見たが、華族の長男は皇室の藩屏(はんぺい)として軍籍に就くという“不文律”にしばられ、陸軍幼年学校から陸軍士官学校(陸士)への道を歩んだ。

 昭和7(1932)年に陸士を出ると陸軍大学校を経て、昭和17(1942)年に陸軍省入り。兵器局課員として兵器の研究、調達、補給などを担当。終戦を迎えた時は名古屋の第十三方面軍と東海軍管区司令部で参謀を務めていた。

 福原氏が爵位返上を心に決めたのは、終戦のすぐ翌日である。

「自決しようにも、武器は全部司令官に取り上げられてしまったし、後方兵站(へいたん)担当の参謀としての後始末もある。それに、戦争に負けて杉並の家、財産は丸焼け。しゃくなことに、昭和20(1945)年5月25日の東京大空襲は東京を縦断し、杉並の我が家の所で終わっていた。とにかく、これからどうなるのか分からない」

 戦犯に問われたり、暮らしに困ってヤミ屋をやったりする可能性もある。そこで「警察の厄介にでもなったら、男爵ではみっともない」と考えた。

次ページ:返上が許可されたのは1年後

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。