「ボクが元男爵なんて誰も知らない」戦後すぐ“爵位返上第一号”となった男性 後の会社運営で貫いた“納得のポリシー”とは
返上が許可されたのは1年後
「まあ多少頭に血ものぼっていたんでしょうが、ボクとしては、爵位はどうせ祖父の功で父が貰ったもの。重荷でしかなかったのだし、簡単にいえばこれからは一市井の徒として裸一貫になりたかった。で、誰にも相談せず、司令部の参謀室で深夜、陸軍の用紙に返上願を書き、宮内省に送ったのです。
のちにはどうせみんな爵位を失ったわけですが、その時は宮内省も驚いたんですかねえ。理由をいえといってきて、改めて事由を書いて出し、允許(いんきょ)、すなわち許可が下りたのは昭和21(1946)年5月でした。親族に挨拶状を出すと、オジが1人だけ、『よくやった』といってくれました。妻は何もいわなかったが、母はやはり残念そうでした」
この許可が下りる1カ月前、福原氏は戦犯に問われることもなく復員。軍隊時代に知り合った代議士が経営する製薬会社に総務部長として入社する。
が、やがて同社は倒産。上京して従兄の断熱工事会社を引き継ぐが、勢力争いに嫌気がさして独立。昭和31(1956)年に資本金100万円でいまの会社を興した。社員はわずか「11人ぐらい」(福原氏)だが、現在は資本金800万円、年商2億円余の企業に成長しているのである。
ボクが元男爵なんて誰も知らない
しかし、福原氏の戦後は必ずしも平坦な道ばかりではなかったようだ。むろん、元男爵の肩書きなどは全然通用しない。
「ボクもいいませんでした。一緒に会社を作った仲間も知らなかったし、いま住んでいるこの近所でもボクが元男爵なんてことは誰も知らないんですよ」
福原氏にとって、仕事上の危機は何度かあったという。
「1つは三菱造船が受注したソ連漁船の断熱工事を請け負った時。9杯のうち7杯までは順調に終わったのに、8杯目が終わろうとした時に、それまでの人と代わったソ連の監督官が突然難クセをつけてきた。納期に間に合わせないと、三菱造船が多額の違約金を払わねばならんというので、必死の突貫工事をやって大赤字を出しました。この時ばかりは『ソ連の野郎』と思いましたねえ」
元男爵・帝国陸軍中佐としては、敗戦以来の“屈辱”であったのだろう。ほかにも下請け中小企業ならではの補償トラブルや、信頼していた経理担当重役に使い込みをされたこともある。そうした危機を乗り越えさせたのは、福原氏生来の快活さだったようだ。
2つ残った“元華族の特典”
氏が自分の育てた会社をあえて子息に譲らなかったあたりにも、祖父以来の爵位をいち早く返上した精神はのぞいている。
「小さい会社で社長を息子なんかに譲ったら社員は喜んで働きません。ボクは、家族はもちろん一族は誰も会社には入れない主義で、社員全員に株を持たせてきた。昭和51(1976)年に社長を辞めた時も、代表権とともにほとんどの株を手放して、社員に分けてしまいました。おかげで家内などは、財産らしい財産が何も残らなかったとブーブーいっておりますがね」
そして、福原氏はいま、「元華族の特典は2つしか残ってないな」と大笑するのである。
「ひとつは桂離宮や修学院離宮の見学許可を取るのが簡単なこと。もう1つは昔の華族会館改め『霞会館』が霞が関ビルの地主であるために、最上階のレストランの高級料理がフルコース2500円で食べられること。これは大いに利用しています」
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