【豊臣兄弟!】「信長」の意外な忍耐&「秀吉」の天才が発揮され…“日本一堅固な城”が落ちるまで
自軍の損害を最小限にするため
その間、信長に有利な状況は少しずつ作られていった。元亀2年(1571)2月、浅井軍の最前線として佐和山城(彦根市)に籠城していた磯野員昌が、織田方に寝返った。同年10月には、宮部城(長浜市)の宮部継潤も寝返った。とくに宮部城を押さえたことは、小谷城を攻めるうえで重要だった。
翌元亀3年(1572)になると、7月には南正面の虎御前山を起点に小谷城を攻撃し、清水谷の水の手口まで攻め込んでいる。水の手口は山上の主郭への登り口のひとつで、そこまで織田軍に攻め入られたということは、城兵たちの焦りもかなり大きかったに違いない。
その後、信長は8月にかけて、虎御前山を陣城として整備。後方の横山城とのあいだを結ぶ軍道まで敷設した。決定的だったのは、それから1年経った天正元年(1573)8月、山本山城(長浜市)を守っていた阿閉貞征と貞大の親子が、信長に降伏したことだった。これにより、小谷城とその西側の琵琶湖畔に位置する山本山城のあいだを結んでいた防衛ラインが崩れ、ついに小谷城は四方から攻撃することが可能になった。
このように信長は、時間をかけて小谷城を攻撃できる環境を整えた。ドラマや映画を見ていると、合戦とは正面からぶつかり合うものだ、と考えてしまいがちだが、そういう合戦は例外だった。戦国大名は一般に、自軍の損害を最小限にとどめようとした。それを意識しないかぎり、簡単に滅んでしまうからだ。信長も同様で、自軍の損害を最小限にとどめるためには、こうして時間をかけるほかなかったのである。
城を2つに分断して父子も分断した
ともかく、こうして時間をかけたのちは、戦の天才による攻城が大きくものをいった。ここでの「戦の天才」は木下秀吉である。
信長の事績に関する第一級の史料である太田牛一の『信長公記』から引用する。
〈八月二十七日夜、羽柴秀吉は小谷城の京極丸へ攻め込み、浅井久政・長政父子の間を遮断し、まず久政の居城を占領した。ここで浅井福寿庵が切腹した。また、浅井久政に年来目をかけられていた鶴松大夫という舞の上手な者がいたが、この鶴松大夫が久政の介錯をし、自分も主君のあとを追って切腹した。あっぱれなことはいうまでもない。羽柴秀吉は浅井久政の首を取り、虎御前山の信長の陣へ持参し、実検に供した。
翌日、信長もまた京極丸に入り、浅井長政・赤尾清綱を切腹に追い込んだ〉(中川太古訳)
『信長公記』は〈八月二十七日夜〉と書くが、ほかの史料等から、この日付は正しくは8月29日と考えられ、天正元年の8月は「小の月」で29日までしかなかったので、翌日は9月1日ということになる。
ここで秀吉が行ったことだが、1年前にも織田軍が攻め込んだ、清水谷奥の水の手口から一気に山を駆け上り、京極曲輪の枡形虎口を打ち破って城内に進攻。2つに分かれていた主郭エリアを完全に分断し、双方のあいだで一切の連絡が取れない状況をつくったのだ。その後、上の城にいた長政の父の久政を追い詰め、切腹させた。そして翌日、今度は信長自身も京極丸まで登ったうえで、いよいよ下の城を攻め、長政を切腹させている。
1年前に水の手口まで攻めたのは、城攻めの予行練習だったのだろう。しかも、そこから本番までに1年以上を費やしている。小谷城攻めには信長そして秀吉の、負けない戦をするためには、存分に時間をかけて準備するという、戦い方の王道が凝縮されている。それをやられてしまうと、どんな堅固な城も落ちてしまうことは、とくに秀吉がのちに証明することになる。
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