「自衛隊の歌姫」国歌斉唱問題は誰のどういうミスだったのか
否定できない「うかつさ」
自衛隊は「国民の自衛隊」であるべきで、特定の「誰か」が占有していいものではない。政府を構成する与党とて例外ではない。だからこそ党大会という場が問題視されるのだ。
ならば事の発端、つまり出演を依頼した党こそが責任を引き受けるべきだ。責任の所在があいまいになれば、党や政府、自衛隊が「私人参加」を強調することで本来責任がないはずの自衛官個人へと矛先が向きかねない。それこそが、「自衛官思い」の小泉大臣にとって最も耐え難いことのはずだ。三歩遅れて「防衛省内で私に報告があれば違う判断もあった」と言い出す姿勢で、今後自衛官を守れるのだろうか。
また、今回の党大会問題をきっかけに「政軍関係のあり方」が問われることになるだろうが、その際には「自衛隊を軍として扱ってきたのか」も問われることになる。
憲法9条によって「軍ではない組織」とされてきたのが自衛隊なのである。命を懸けて国を、国民を守ろうというのに軍としての信頼も名誉も与えられずにいれば、(決していい傾向ではないが)「褒めてくれる誰か」「映え目当てであっても認めてくれる相手」との癒着が生じやすくなる。
あるいは防衛省(内局)が自衛隊をすっかり行政組織扱いして「与党にはいつもお世話になっているから」と参加を許可したのであれば大問題である。
こうなると、「こんな状態で憲法改正はまかりならん」という声も出よう。だがそうした声とは逆に、政軍間に必要な緊張感が生じない理由には憲法9条という日本独自の要素があることは否定できない。
政軍関係について分析する廣中雅之『軍人が政治家になってはいけない本当の理由』(文春新書)では、日本で適切な政軍関係を構築するには〈まずは、自衛隊を、現行憲法および国内法制の下で、高度な軍事専門組織として国家機構の中に明確に位置付ける必要がある〉と指摘する。廣中氏は元航空自衛隊空将である。
自衛隊法は自衛官が政治的行為を行うことは禁じているものの、政治の側が自衛隊を利用することについては何らの規制もない。自衛隊が国家機構の中に明確に位置付けられていない状態で「自民党と自衛隊の付き合い方が国民からどのように見えるか」の判断を政治の側に任せていると、時として今回のようなうかつな事態が起きるというわけだ。
〈自衛隊はつねに国民とともに存在する〉
これは昭和36年6月28日に制定された「自衛官の心がまえ」という、自衛官としてのあるべき姿を示した文書の一文だ。これを引いた上で改めて問いたい。政府式典ではない、一政党の党大会へ自衛官の出演を依頼することは、「国民とともに存在する自衛隊」の姿にふさわしいか。そして同時に、心構えが必要なのは、政治の側ではないのかと問わねばなるまい。
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