「看護」を語る上で欠かせない「偉人」 朝ドラ「風、薫る」と大河「八重の桜」をつなぐ「人物」とは

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8歳で戦った捨松

 会津戦争時の捨松はまだ8歳だったが、戦いに加わっている。容保の居城・鶴ヶ城で約1か月行われた籠城戦に参戦した。家老・山川家の娘として、逃げ惑うわけにはいかなかった。この物語では籠城戦が捨松の追想として第15回(17日)に放送された。

 捨松の役割は城に飛び込んできた砲弾に濡れた布団を持って飛びつき、火を消すこと。「焼玉押さえ」と呼ばれた。抱きついた直後に爆発する砲弾もあり、危険極まりなかった。

 なぜ、子供までが戦ったのか。当時の会津藩の教育水準は高く、特に公共心や道徳心を徹底的に教えた。卑怯な言動や弱い者いじめなどを厳に禁じる「什の掟」もあった。子供であろうが、逃げ隠れするのは卑怯だと思ったのではないか。

 捨松の長兄でのちに東京高等師範学校(現・筑波大)校長になる山川浩の妻・トセも捨松と同じ焼玉押さえを担った。しかしトセの抱きついた砲弾は爆発。亡くなってしまう。まだ19歳だった。

 捨松の次兄・健次郎は、19人の少年が自決した白虎隊に参加した。自決した部隊とは別だったが、刀を持って戦った。健次郎はのちに東京帝大の総長になる。兄弟で日本の高等教育を背負った。そもそも会津藩は教育熱心だったが、山川家には「学問は決して裏切らない」という家訓があった。

 会津藩の悲劇は敗戦後も続く。新政府軍は遺体の埋葬を許さず、放置させた。信右衛門は会津藩への仕打ちに憤るような言葉も口にしている。

「誰かが負けた者、弱った者の側に立ち、手を差し出せる世にならないと、淋しい。淋しすぎる」(第3回)

 元家臣の中村が信右衛門をずっと敬い続けたのも分かる。

 捨松は1871年から米国に官費留学する。期間は10年だった。このとき捨松は12歳。それまでの名前は「さき」だったが、母親・えんが「捨松」と改名する。留学期間が長期だったので、えんは「捨てたつもり」と考えた。一方で「学問を修めて帰る日を待つ」という思いも込められていた。

 留学させたのは官庁の1つだった北海道開拓使。定員は女子5人。競争率は1倍だった。希望者がほかにいなかったのだ。留学というものがそれまで存在しなかったし、期間があまりにも長すぎた。

 5人のうち1人は津田梅子。のちに津田塾大を創立し、女子高等教育の先駆者となる。留学時は8歳だった。もう1人は帰国後に東京音楽学校(現・東京芸術大)教授などを務め、日本に音楽教育を根付かせた永井繁子。こちらは9歳だった。そして捨松である。あとの2人の留学生は日本を出てから10カ月後に帰国した。ホームシックに罹ったためだ。

 米国での3人は小中高とも成績優秀。捨松はコネチカット州ニューヘイブン市の宣教師宅で暮らした。宣教師は黒人差別反対運動の推進者だった。この家で捨松は自由と平等を学ぶ。

 19歳になった捨松は米国女子高等教育の最高峰だったヴァッサー大学に進学。学年3番で卒業する。卒論は「英国の対日外交政策」。それに基づく講演を『ニューヨーク・タイムズ』などが絶賛した。

 一方で捨松は「人道」「公平」「中立」などを原則とする赤十字に共鳴。ニューヘイブンのコネチカット看護婦養成所で看護婦資格を取る。トレインドナース(教育を受けた看護婦)になった。第16回(20日)で多部が演じる捨松が、りんと直美に説明したとおりである。

 留学は1年延び、帰国は1882(明15)年。捨松はここで酷く落胆する。官費によって学んだことを社会に還元しようと思っていたが、仕事がない。北海道開拓使は消滅していた。

 捨松は女子高等教育機関をつくることを願ったが、政府は協力しなかった。大学で教鞭をとることも望んだものの、これも政府が難色を示す。女性だったからだ。多部が演じる捨松もやるべきことがなく、何度か苛立ちを見せた。

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