「天才ではないから、人の3倍も4倍も努力する」 世界に冠たる数学者「広中平祐さん」の“考え続けた”人生【追悼】

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は3月18日に亡くなった広中平祐さんを取り上げる。

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「自分は天才ではない」

 フィールズ賞は「数学界のノーベル賞」と呼ばれる。1936年以来、国際数学者会議が選考しているが、授与は4年に1度、対象者は40歳未満の若手限定と非常に狭き門だ。

 広中平祐さんは70年、同賞受賞の栄誉に輝いた。日本人としては54年に初受賞の小平邦彦さんに次いで2人目。その後は、90年の森重文さんしかいない。広中さんは年齢制限ギリギリの39歳での受賞だった。

 周囲は「天才」とたたえたが、広中さんは「自分は天才ではない。だから考え続けてきた。努力はしてきました」と語っていた。

 31年、山口県由宇町(現・岩国市)生まれ。

 広中さんより3学年下で近所に住んでいた山本睦美さんは思い出す。

「由宇小学校、当時は国民学校でしたが、皆から、へいちゃん、と呼ばれていました。おとなしくて真面目です。声はどうやって出るのとか、私など気にもしないことをへいちゃんは不思議がってお母様のマツエさんにどんどん質問するのです。お母様は分からないとは言わず、近所のお医者さんの家を訪ねて代わりに聞いて正しい答えを伝えていた。夜遅くまで勉強していてお父様に電気がもったいないと言われた時には、押し入れの中で勉強ができるよう机代わりの箱と明かりをお母様が用意してくれたと話していました」

問題を解く過程の“発想”が大切

 44年、旧制柳井中学に入学。敗戦を迎え、新制高校への切り替え混乱期に学ぶ。

「高校時代の数学の谷川先生のおかげで数学という学問に夢中になり、今の僕があるとよく聞きました。広中さんに先生が特別な問題を出してくれたそうです。ピアノを弾くのも大好きで、学校以外ではオルガンを弾いていました」(山本さん)

 問題を解いていく過程の“発想”がいかに大切かを教えられたと、この恩師に生涯感謝していた。

 京都大学理学部数学科を54年に卒業、大学院を経てハーバード大学へ。専門は代数幾何学で、周囲の天才に圧倒されるも卑屈にならず、人の3倍や4倍は時間を要すだろうがその分やればいいと研究に没頭した。

 ハーバードの教授時代にフィールズ賞の受賞に至り、5年後の75年、昭和生まれで初の文化勲章を受章。

「受勲のお祝いで帰省してくれました。偉くなったのに気さくなまま。故郷思いでした」(山本さん)

 教える過程で気付くことが多いと言い、京大で教鞭を執る以外にも若者への教育や学者の交流の機会づくりに献身した。対談の名手でもある。80年代に入り「数理の翼」セミナーを始め、財団法人数理科学振興会を設立。算数オリンピックも広中さんが提唱者だ。

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