68歳にして“電流爆破”プロレスを開催! FMWの「新日」参戦で猪木氏に「お前たちにあの“毒”が飲み込めるのか?」と言わしめた“涙のカリスマ”

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ライバルは初代タイガーマスク

 全日本プロレスで白羽の矢が立ったジュニア戦士は、当然、大仁田だった。ちょうど44年前のこの時期である1982年3月、修行先のアメリカでNWAインターナショナルジュニア王座を奪取した。すると4月22日に、そのNWA王座に初代タイガーマスクを挑戦させる展望を、新日本の新間寿が公言したのである。ただのリップサービスかと思いきや、5日後の27日にはタイガーマスク自身も秩父での試合後、「やっても良い」と発言。

 こうなると全日本も負けていない。約1ヵ月後の6月1日、ジュニア王座の初防衛戦を終えた大仁田が、「タイガーマスクとは、タイトルの有無は関係なく、いつでもどこでもやってみたい」とアピールしたのである。

 これには裏事情があった。前年、スター外国人選手の引き抜き合戦を繰り返した新日本と全日本は、互いのために、引き抜き防止協定を年初に結び、その席で、「第2回のオールスター戦をおこなう」という構想が持ち上がっていたのだ。事実、タイガーvs大仁田を宣言した4月22日、新間寿は東京スポーツ新聞社を訪れ、第2回オールスター戦の主催を同社に頼んでいる。

 結局、このオールスター戦は中止にはなったが(※3)、その後もタイガーと大仁田の関係は良好で、1983年1月2日には新日本のリング上で新間寿が「大仁田選手から、タイガーと戦いたいという申し入れがあった」とし、2日後の「プロレス大賞」受賞式では2人が歓談。タイガーは「大仁田戦は大歓迎」とコメント。「ワールドプロレスリング」でもこの話題となり、解説の山本小鉄が大仁田について、「テレビで最近観てますけど、強くなってますしね」と高い評価をしている(1983年1月7日放送分)。

 実際、ジュニア王者時代の大仁田はテクニック的に大いに光るものを持っており、美しいジャーマンスープレックスは勿論、この年3月27日の防衛戦ではダブルアームスープレックスからそのままブリッジするという難易度の高い技で勝利。これは前田日明が凱旋帰国第1戦で見せたフィニッシュと同型であった(※大仁田はそのまま相手の腕を絞りギブアップ勝ち)。

 ところが好事魔多し。4月20日に防衛を果たし、リングから飛び降りたところ、左ヒザの皿を粉砕骨折。ただでさえ体格をカバーするのに縦の動きがデビュー時から多く、ジュニア王座に就いてからはタイガーへの対抗意識か、トペなどの飛び技が頻出していたのも確かだった。4度の大手術を経て、1年1ヵ月後の1984年5月に復帰も、タイガーマスクは前年8月に引退してしまっていた(※「デイリー新潮」2025年8月19日配信記事参照)。

 大仁田は1984年8月26日、かつて自分が持っていたジュニア王座に挑戦するも、その時点の王者・マイティ井上と引き分け。試合後、「引退を賭けて、もう一度やらせて下さい!」とアピールする。これは完全に大仁田のアドリブだった。それはこの日、自分の1試合前にデビューした“ニューヒーロー”の存在が影響していた。皮肉にも、2代目タイガーマスク(三沢光晴)が、全日本のリングでデビューしたのだ。初代の圧倒的な人気を見越しての、2代目の誕生。それは、ジュニアの主役の座が、大仁田から完全に移行することを示していた。かつては他団体同士ながら初代のライバルとされた大仁田自身が、それを一番よく理解していた。

 引退をかけた試合で敗れた大仁田は1985年1月、自らプロレス界を去った。

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