68歳にして“電流爆破”プロレスを開催! FMWの「新日」参戦で猪木氏に「お前たちにあの“毒”が飲み込めるのか?」と言わしめた“涙のカリスマ”
今年2026年は、佐山聡デビュー50周年(1976年5月デビュー)、及び初代タイガーマスクデビュー45周年である(1981年4月デビュー)。その一方で卒業式シーズンになると、スポーツ紙に名前が頻出するレスラーがいる。“邪道”、大仁田厚だ。
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「俺もこの時期、卒業式でプロレスをやったもんだ」
実はプロレスラーの傍ら、1999年に41歳で駿台学園高校定時制普通科の3年次に編入学した大仁田は、翌年2月、卒業式に先立ち、同高校の体育館で“卒業記念プロレス”を開催している。今年の3月20日にも、山梨県立農林高校の卒業記念プロレスに出場することになっている(※1)。
“正義のスーパーヒーロー”タイガーマスクに比べ、やることなすこと対極的かつ破天荒な大仁田厚だが、実はかつて両者は「ライバル同士」とされていた時期があった。タイガーと並び称されるほどフレッシュなジュニア戦士だった大仁田が、何故これほど変わったのか? 後年実現したタイガーとの対戦とともに、その道のりとプロレス哲学に迫りたい。(文中敬称略)
自己プロデュース力は一流
大仁田厚は1957年、長崎県長崎市生まれ。祖父が立ち上げた「大仁田風呂敷」が県内でも知られた企業だったゆえ、3つの家屋が渡り廊下で繋がった建坪80の大邸宅に住み、自分では靴紐を結んだこともない、正真正銘のお坊ちゃまだった。しかし、父が蕩尽家だったため、離婚の憂き目に。すると、別れた母への思慕と、父への反発から、大仁田の独立心が一気に芽吹いた。
広大な家の敷地に小屋を建て、そこで寝泊まりし、中学になると自分で新聞配達をして金を稼ぐようになる。さらに中学卒業を機に、「徒歩で日本一周」という計画を立てた。驚いたことに、この模様は、「スポーツニッポン」九州版1973年4月6日付に掲載されている。
〈ご立派! 歩いて日本一周〉
〈アドベンチャー・ボーイ〉
〈長崎を出発した大仁田君、無事北九州入り、元気に本社前を通過〉
初めて大仁田の名がメディアに載った例なのだが、何のことはない。長崎県庁前から出発し、福岡県の門司まで辿り着いた時、スポーツニッポンの西部支社に、大仁田自身が自分を売り込んだのである。曰く、「僕の冒険を記事にしてくれませんか?」と。プロレスラーとして一番必要な、自己プロデュースにも長けていたことになる。
ところが神戸の元町で資金が底を尽き、沖仲仕(港湾労働者)の仕事に従事。ここを逃げ出し、離れた母の下に身を寄せ実家に電話すると、家は火事で焼けてしまっており、びっくり仰天。帰省し、父の知人を頼り、プロレスラーを目指すこととなった。「日本はおろか、世界中をタイツ1つで回れるのは良いなあ」という、何とも大仁田らしい理由だった。
ジャイアント馬場に会ったのは1973年10月9日の全日本プロレス・蔵前国技館大会。16歳、178センチ、80キロになっていた大仁田を見て、馬場は言った。
「明日から巡業に出るので一緒に来なさい」
この時、全日本プロレスは旗揚げ2年目。エリート待遇で契約し、海外の道場で研鑽を積んだジャンボ鶴田を別にすれば、大仁田は団体にとって初めての新弟子だった。いわば全日本プロレスによる純粋培養選手の第1号なのである。74年4月にプロデビューした大仁田は、79年度の東京スポーツが制定したプロレス大賞で努力賞を受賞するなど、順調に成長。ファイトスタイルはダイビング・ボディプレスやジャンピング・エルボードロップ、ギロチンドロップが中心で、大型選手が揃う全日本では小兵ながら、ダイナミックな攻めが目立った。
だが、当時の全日本は、ジュニアヘビー級というジャンルを全く重視していなかった。78年にライバルの新日本プロレスで、藤波辰巳を核としてジュニア戦線が盛り上がった際のジャイアント馬場の発言が残っている。
〈ウチにはジュニアヘビー級クラスはほとんどいない。大仁田くらいのものかな〉(「月刊プロレス」1982年5月号。※回顧記事)
実際、1981年まで所属選手がジュニア王座に絡んだ例は、まだ細かった鶴田が74年にNWA世界ジュニア王座にチャレンジした1試合のみであった(※2)。しかし、81年以降になると、全日本もジュニア部門を無視できなくなる。同年、新日本で初代タイガーマスクがデビューし、プロレスファン以外の一般層にも普及する、大プロレス・ブームを起こしたのだ。
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