【豊臣兄弟!】美濃を攻略した信長が「岐阜城」で実現 宣教師もぶったまげた“目も上げられない”絶対性
ほかのすべてに優るための宮殿
小牧山城は標高約86メートルの小山だったので、信長は麓から山頂まで全山を要塞化した。だが、稲葉山城は標高約329メートルの金華山頂に築かれ、名を岐阜城と改めてもそこが変わるわけではないから、山麓と山頂部による二元構造は、斎藤時代のまま維持された。
では、信長は山麓と山頂のそれぞれを、どう構築したのか。イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』に書かれた記録から再現してみたい。フロイスは永禄12年(1569)、信長みずからの案内で城内を見学したのである。
フロイスはまずこう書く。「彼(信長)は自らの栄華を示すために他のすべてに優ろうと欲しています。それゆえにこそ、彼は多額の金子を費やし、自らの慰安、娯楽としてのこの宮殿を建築しようと決意したのであります。宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます」(松田毅一、川崎桃太訳、以下同)。つまり、信長の「他のすべてに優ろう」という野望がカタチになったのが岐阜城だというのだ。
山麓の居館、フロイスのいう「宮殿」に足を踏み入れると、こんな様子である。
「第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴らしい材木でできた劇場ふうの建物があり、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます」
「内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何もなく終わりであると思われるところに、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、(中略)これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、(中略)この前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてははなはだ稀有なものであります。(中略)下の山麓に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています」
[2/3ページ]


