【ばけばけ】ネイティブの小泉八雲から習ったのに…「セツ」の英語力がぜんぜん伸びなかった意外な理由

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「日本女性は英語を話さないほうがいい」

 上記は『覚え書帳』から抜粋したものではあるが、体系的な学習とはほど遠いように見えてしまう。先入観がないまま耳で素直に聴き取っているので、英語の標準的なカタカナ表記よりも、ネイティブの発音に近いのではないか、と思えるものもある。ただ、やみくもに言葉を暗記しようとしていたのではないか、という感想も拭えない。

「ばけばけ」のトキは、まもなく英語学習を中断してしまう。なかなか上達しないので、ヘブンが「いったん終わりにしよう」と告げる。一方、セツの英語学習がどこまで続けられたのか、はっきりとはわからないが、3年弱の熊本時代でいったん終止符が打たれたことはまちがいない。ハーンが「立派な進歩を示しています」と書いたわりには、セツの英語はモノにならず、実生活で活用するには至らなかった。

 その後、神戸を経て、明治29年(1896)9月に東京に転居すると、セツは英語のレッスンを再開することを望んだ。熊本で生まれた夫妻の長男の一雄は、このころ4歳になろうとしていて、すでにハーンの英語レッスンを受けていた。セツも再チャレンジを試みたくなったようだ。

 しかし、希望は叶っていない。このころのハーンは、良くも悪くも彼らしさが深まっていて、しとやかな日本女性が英語を習得すると、その美質が損なわれてしまう、という面倒な考えをいだくようになっていたのである。もっとも、セツの語学習得力を見限っていた、という面もあるのかもしれないが。

最期まで向上しなかったセツの英語力

 だが、東京生活も4年以上が経過した明治34年(1901)1月ごろ、セツの英語学習は急に再開した。次男の巌がもうすぐ4歳、三男の清が1歳で、子育ても忙しい時期だったはずだが、そこでふたたび英語をはじめたのは、セツの英語への意欲がよほど強かったからかもしれない。

 このときの学習に関しても、ハーンが書き与えた英文を、セツが繰り返し書いたノートが遺されている。ただ、ハーンは英文を口に出したのではなく「書き与えて」いる。つまり会話のレッスンではなく筆記の練習だったと思われる。ハーンは相変わらず、日本女性が英語を「話す」のを嫌ったのだろうか。

 だが、「先生」がそういう姿勢では、「生徒」の学力も向上しにくいだろう。実際、ノートを見るかぎり、熊本時代からの進歩のあとはあまり見られない。熊本時代から10年近く経っても、セツの英語力はほとんど伸長していなかったようである。

 結局、夫妻はハーンが死ぬまで、基本的に日本語で意思疎通を図った。それは、動詞や形容詞は活用せず、動詞を文の最後に置く日本語の語順と、主語のすぐ後に動詞を置く英語の語順を、時と場合によって使い分ける、いわゆる「ヘルンさん言葉」だった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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